第39話 二人が奏でる物語。
宇治神社を後にした僕たちは来た道を再び引き返しながら静かに並んで歩く。僕は乾いた喉を潤すために自販機でお茶を買った。まだまだ夏の匂いを纏った夜風に秋の色を探りながら、流れる
時の流れに人一倍敏感になっていた僕の心が、きっと今も昔も変わらないその風景を羨ましく感じている。
そんな僕の重っ苦しい思考を、涼子さんのいつものの声が一瞬で吹き飛ばした。
「ところでさ、美沙とはドコマデ?」
「ハ、ハイ?」
「もうやっちゃったの?」
おもわず『ブ――ッ』と勢いよくお茶を吹き出してしまった。
(な、なにをいきなり……)
「んー?やっちゃったのー?」
とイタズラな笑顔で覗き込む。
「い、いえ、まだ健全なお付き合いです」
「エーッ!?まだ手をつけてないの?あんなに二人きりの時間があったのにー?何してんのよっ。使えるときに使わないとカビるわよ!」
(カビるって……)
「もしかしてその若さでまさかの機能不全?」
(イヤイヤ、けっしてそんなんじゃ……)
「あ、わかった!美沙から襲ってもらえるの待ってるんでしょ?」
(うっ、なんて発想だ…… )
「意気地なし君ね。未来の男子ってみんなそうなの?ほんと日本の行く末が心配だわ」
(なぜか、叱られてる気が……)
「賢太朗、ゴーイングマイウェイもいいけどさっ、ここぞって時は、強引にマイウェイよ!ゴーインに!イヤヨイヤヨモスキノウチ、ねっ」
(ハ、ハイ、頑張ります……)
「未来も美沙も、いっしょいっしょ!待っててもきちゃくれないわ!欲しけりゃ合法的に迎えに行くものよ」
まったくその通り、なんだけど……
それはわかってるんですけど……
もうちょっとマシな言い方が……
言われっぱなしの僕はほんの少しだけ心に宿った反抗心を振り絞り、「そう言う涼子さんは、結婚とか考えてないんですか?」と反撃に出るが――、
「ない。男はみんな情けなくてお荷物!遊び相手で十分十分!はっはーっ」と笑顔で返され余計に肩身が狭くなる。彼女の錬磨度はきっと半端ないのだ。まだまだ赤ん坊の僕が
それでも。
我慢強く耐えた?僕の背中をバンバンと強めに二度叩き、「まぁそこがアンタのいいとこなのかもしれないねっ」と笑顔をくれた。
気がつけば僕たちは宇治橋を渡りきった所に設置された
「あっ、やっばーい!そういえば今日、学生時代のやつらと飲み会があったんだった。すっかり忘れてたぁ、えへっ」
「あー、もう11時回っちゃってますねー」
と苦笑いを向ける。
「うーん、まぁ、まだ終わってないと思うし、ちょっくら顔出してくるわー」
「アンタもついて来る?」
と、いつもの笑顔。
さすがにこの時間からとなると途中で眠ってしまいそうで。いや、もとい。おそらく超個性派であろうその友人たちに囲まれた自分を想像すると、取って食われる恐怖心さえ生まれてしまい。
僕は迷うことなくキッパリと断った。
「今日はハナキン、明日は土曜!まだまだ昼間よ。じゃーねっ」
そう元気に言い放って彼女は商店街の裏路地に消えていく―― と思いきや。
曲がり角から顔だけこちらに向けて少し大きめな駄目押しを、静寂な観光地に響かせた。
「今夜は帰らないからねー。賢太朗、ファイッ!」
(……まったくもって、涼子さん、だな。ところでハナキンって何だ?キンバンのことかな……)
気がつくと自然と笑みが浮かんでいた。
一人でいるとどうしても重くなりがちな僕の気持ち。それでも今は、涼子さんのその破天荒すぎる本性でさえも有り難かった。
※※※
「たっだい、まっ」
先ほどのドタバタ劇を未だに引きずったままの僕の声が、誰もいない
一瞬あらぬ事が頭をよぎるも、息と共に
僕は耳障りなテレビを消し、押入れから美沙の匂いがするタオルケットを一枚取り出してそっとかけた。そして、起こさぬように静かに腰を下ろし彼女の頭をふわりと撫でる。
僅かに窓越しに聞こえくる虫の音が、その静寂に秋らしさを醸していた。
『今よ、賢太朗!』
涼子さんのあのニヤけた残像が一瞬僕の思考を
僕は場違いな妄想への苦笑いの後、目の前の美沙へ優しさ
小説を書くのが好きと言っていた美沙を思い出しながら何気なくその原稿用紙を手に取って、ペラペラと意識を落とした。
(新作かぁ……
ん?これって…… まさか……)
僕は直ぐに、その物語の世界に身も心も引き
※※※
遠くから僕を呼ぶ声が意識に入り込んでくる。
誰だよ、邪魔してくるのは。
今この世界から抜け出したくないんだ。まだ美沙が作ったこの世界に浸っていたいんだ。だからほっといてくれよ。この後をしっかりと見届けたいのに!
……、ねー、いっくん、いっくん、ねぇってばー。生きてる?いっくん、いっくん!
「いっくんってば!!」
その大きな音源でハッと現実に戻されると、上半身だけを起こした美沙の顔が僕の右腕から覗いていた。
「帰ってたんだねー。おかえりー」
「あ、うん、今さっきな。……たぶん。えっと、あ、こんなところでうたた寝してると風邪ひくぞ」
「大丈夫よ。まだ夏だし」
その笑顔の
「いっくんの手って、やっぱり男の子だねー」
美沙は目を閉じて、僕の掌に
その柔らかな頬から伝わりくる彼女の匂いを感じながら、僕は言葉を向けた。
「なぁ美沙、これって……」
「ん?あー、あともう少しで描き終わるんだけどね、どうしても最後のところが上手くおさまんなくてー」
「――どうしよっかなーって」
僕が手に取っていた書きかけの原稿用紙。
そこには、未来からやってきた一人の男の子の物語が描かれていた。
「この男の子って…… もしかしなくても?」
「んー、さぁー、誰でしょ!?ねー」
掌から笑みが伝わってくる。
そして暫しの沈黙。
僕は未だ掌におさまる頬に意識を落とし、「んー?なんだい?」と思い遣りで促すと、美沙がポツリと呟いた。
「この続きね、いっくんと一緒に作りたいの」
そして再び言葉が止まる。
僕は黙ったまま、その沈黙に隠された彼女の心を解き続けていた。
「それでね、二人の宝物にするの。いっくんと一緒に作った、想い出がいっぱい詰まった宝物にするんだー」
そんな僕を知ってか知らずか、それでも美沙はいつものように置き去りにしていく。
「どう?この案!いいでしょ?」
「私、コラボやってみたかったんだー」
「どんな世界になっちゃうんだろなー」
「楽しみだなぁー」
「あ、そうだ。最後に二人で旅行させてみよっか!海外とかどう?例えばねー、んー、南極か北極の冒険!面白そうでしょっ」
「それからね――、」
(美沙……)
本音なのか、それとも演技なのか。
そう明るく振る舞う彼女の姿は、まるで雑念を取り払うかのような、僕の気持ちを慮っているかのような、何かを忘れてしまいたいかのような仕草にも思えた。
「――だから、一緒にかこっ」
美沙は僕の掌から顔を上げて、とびきりの笑みを浮かべる。
明るくわがままに映るいつものその姿に隠された心を、僕の中に宿る涼子さんが放った言葉たちが、いとも
(これでドシャブリ、なんだよな……
ずるいよ…… 全然見抜けないじゃん)
僕は小さく一度、彼女に微笑みを向ける。
そして、全てを受け入れる覚悟を決めた。
それは、彼女と一緒に1994年の物語を紡ぎ切る覚悟であり、どんな未来がやってきても諦める覚悟であり。
そして素直な心でこう答えた。
「うん、一緒に描こう!やっぱこの物語の最後さっ、」
――こうでなくっちゃ!
その笑みに、美沙が即座に反応する。
「うん!私も絶対そう思う。そうしたい。そうであってほしい、」
――そうでなきゃ、イヤなの!
「こう」と「そう」
僕たちには、それだけで十分だった。
それらが何を指しているのか。違うわけがない。
僕の心がそう主張していた。
「私ね、この物語でね、一つだけ決めてることがあるの」
「ん?どんなこと?言ってごら……」とすぐに美沙に答えを聞こうとするも、僕は一旦「いや、ちょっと待って!」と遮る。
そして「その前に僕の意見を聞いてよ」という言葉に、彼女は嬉しそうな笑顔で「うんっ」と頷き返した。
「この物語の主人公君はさ、もう一度会いたいと思ってるはず、なんだ……」
――だから、
「会わせてあげたいんだ。ヒロインと一緒に会いに行くんだ」
僕は静かに視線を向けると、美紗はその想いを心いっぱいで受け取った嬉しそうな表情で僕を覗き込みながら、言葉を重ねた。
「からの――?」
(からの……)
「美沙と一緒に、未来を生きようと思う」
「それで――?」
と、いつかのようにそっと続きを促してくれる。
僕はその美沙の心に、
「涼子さん、今夜は帰ってこないんだって」
とかぶせる。
「つまりは――?」
潤んだ目をして更に僕の心に問いかける。
僕は一度は離した左の掌で、再び美沙の頬を優しく包む。
「そして――?」
目を瞑った美沙の髪を空いた右手で優しく撫でながら、柔らかく唇を重ねた――
※※※
「なぁ美沙、起きてる?」
「んー?おきてるよー」
僅かに開いたカーテンの隙間から街灯が柔らかく漏れ
コチ、コチ、コチと聞こえてくる針の音が、恥ずかしそうに再び姿を消した。
「明日は?行くの?岡さんのところ」
と美沙が静かに尋ねる。
「うん。作品のレシピ、だいたい決めたしな」
「美味しい?」
「さー、どうだろ。明日持って帰るから食べてみてよ」
「うん」
「明日土曜だし、お客さん多そうだな」
「……うん」
そして再びの静寂。
僕はこの1ヶ月を振り返りつつも、明日からの日々をぼんやりと想像していた。明日を入れてあと5日。ずっと美沙と過ごしたい気持ちがないと言えば嘘になる。それでも未来に帰った後のことを考えると、今しかできないことをしっかりとやりきっておきたい気持ちに後押しされた。
美沙の予知夢。最近はめっきりと見ることがなくなったと言っていたことをふと思い出す。それが意識の深いところで繋がっているとしたら、きっと彼女の見たいという願望が薄れてしまったのかもしれない。それとも、見てないことにしているのか。
答えは想像の域を出ることはないが、僕はそれでいいと思った。
ここからの羅針盤は自分の心なのだから。
「なんだか、寝るのがもったいないな……」
「なぁ美沙……」
「みーさっ……」
(さすがに寝ちゃったか)
先程までは確かにあった美沙の返しは、いつのまにか寝息に変わっていた。
僕は美沙の後ろ髪に頬を当てて、腕の中におさまる美沙の背中から伝わる温もりを抱きしめながら、深い眠りについた――
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