第42話 走り出す、未来。

「ケン、ちょっといいか」



現場で一人、葛餅くずもちの試作に没頭していた僕に声をかけてきたのは、叔父の和也だった。

叔父といってもこの世界では僕と年齢が近いこともあり、日頃から良き兄貴分として面倒をみてくれていた。

僕はその視線にうながされるまま、事務所の扉を目指して歩く彼を追った。



「葛餅作り、うまくいってるか?」


「はい。今朝けさ岡さんにアドバイス頂いて、やっとコツはつかめました。でも……」


「でも?」


「これでいいのかなーって。何かが足りないって言うか……」



ソファーに浅く腰をかけ腕組み姿でそれを聞いていた叔父は、『なるほどなぁ』と静かに天井を仰いだ。そして暫く考え込んだ後、言葉を向けた。



「俺もまだまだ修行の身だから、偉そうなことは全然言えないんだけどさっ」


「――ケン、1つ聞いていいか?」


「はい」


「ケンはさ、この葛餅をどう変えたいんだ?」


「どう変えたい…… ですか…」

僕は言葉に詰まった。



「母さんから全部聞いたよ。これ、ねえちゃんに持って行くんだってな」


「あ、はい、出しゃばった真似まねしてすみません」


「いやいや、それはいいんだ。オヤジと姉ちゃんのことは俺もずっと気になってたことだし。もともとこれは俺がやらなきゃいけなかったことだしな」


「逆にお礼を言いたいくらいだよ」



叔父は徐にソファーから立ち上がると「お前も飲むか?」とインスタント珈琲を準備し始め、話を続けた。



「大学やめちまって京都に帰ってきて。この2年、朝から晩までずーっと和菓子作りをしてさ。こんな俺でも少しはわかったことがあるんだ。あちちっ」


「わかったこと……ですか?」


「うん、まぁあれだ、俺らが作ってる和菓子ってさ。どこまでいっても、主役になれないってことだ」



(主役に、なれない……)



「ははっ、まだケンにはわかんねーか。まぁそんな暗い顔、すんなすんな」



叔父は穏やかな微笑みを浮かべながら二人分のインスタント珈琲をテーブルに置き、「立ってないでそこに座れや」と言いつつ再びソファーに腰を下ろした。



「日常の中でも、旅の想い出でも。とにかく俺らが作ったモンがお客さんの心に寄り添えたら。

究極な話、味なんてどうでもいいってことよ!」


「それだけで大成功!ってな」


「俺はそう思ってるんだ」



僕は続きがもっと聞きたくて、穏やかなその笑顔に静かに耳を傾けていた。



「小さい頃な、俺はいつも姉ちゃんと比べられて。あんなチャッキチャキな姉ちゃんだから、なんでもそつなくこなしやがって。周りから『なんでお前はできないんだー!』って常に言われてる気がしてな」


「あ、いや、実際言われてたんだけどな」

と苦笑う。


「でもな、そん時はすっごく悔しかったけど。それでもいざって時は味方でいてくれてさ。オヤジの雷から何度助けられたことか……」



僕は、彼仕立ての少し濃い目のブラック珈琲をすすりながら、『どう変えたいんだ?』と投げかけられた問いに向き合っていた。



「なぁケン、1つ俺のわがまま、聞いてくれるか?」


「あ、はい、なんでしょう?」


「今のお前の作品にさ。コレ、こっそり混ぜてやってくれないかな?」



そう言うと、ゴソゴソとポケットから何やら取り出し僕に手渡す。



「クッピーラムネ……」


「あははっ、姉ちゃんって昔っからこのラムネとよっちゃんイカがチョー好きでさ。混ぜたら喜ぶんじゃないかって。まぁ、味と見た目と食感はどうなるか想像はつかんけどな」



僕はてのひらの上のクシャクシャになった小さな袋を眺めながら、今自分がやろうとしていることの意味を再び思い浮かべていた。



(叔父さんも、家族、だもんな……

そういうこと、だよな……)



そう思いながら、目の前で静かにカップを口に運ぶ叔父の姿に視線を送り続けた。



「ん?やっぱイヤか?」


「いいえ、そうじゃないんです。なんて言うか、なんだか無性に嬉しくなっちゃって――」


「さっきの答え、『どう変えたいんだ?』っていう答え、たったいま整った気がします」


「ほぅ、聞かせてくれないか」


「それは作品が仕上がってからのお楽しみで。まぁ任せてくださいよ!きっと美味しくなるはずですから」


「ふっ、お前らしいな。まぁいいや。じゃあ楽しみにしとくよ。昼食ひるくったら続き、頑張れよな!」


「はい、じゃあ、今からすぐに取り掛かります」

と笑顔で返す。


「ん?まぁそんな焦らんでも。ゆっくりしてからでもいいんだぞ」


「いや、今すぐやりたいんです!」


「そっか……」


「――サンキューな」



その想いを胸に、再び現場に戻ろうとドアノブに手をかけた瞬間、声が追いかけてきた。



「賢太朗!」



僕はその言葉に振り向くと、照れくさそうにソファーにたたずむ叔父の後ろ姿があった。



「ありがとうな」



(ははっ、やっぱジイちゃんにそっくりだな……)


「あ、和也さん、よっちゃんイカは混ぜなくてもいいんですか? 究極な話、味なんて――」


「どーでもいいんでしょー?」



「バーカッ」



僕のイタズラ顔に返ってきた少年のような笑顔。

それに込められた家族への静かな想い。たとえ今まで何も言えずにそばで見続けていたとしても。


その想いから発する波は、僕の心を温かく染めていった。




※※※※※※※※ ※※※※※※※※



あれから試行錯誤を繰り返しようやく完成させた葛餅を手に、僕は家路についた。辺りはすっかりと暗闇に包まれていた。

アパートまでの道中、缶コーヒー片手に宇治駅前のコンビニに設置されたベンチに一人腰を下ろす。僕はこの1ヶ月間の出来事に想いをせていた。



(そう言えば、ここで美沙に再会したんだっけな)



途方にくれてアルバイト雑誌を眺めていたあの日、バスの中で偶然出会った美沙とこの場所で再会した。そこから動き出した僕の1994年。そのこと自体が随分と過去の出来事のように思えたのは、きっとここでの生活がやけに刺激的で濃いものだったからなのだろう。


もう二度と会えないと思っていた母との再会。

実家の和菓子屋でのアルバイト生活。

美沙と挑んだスイーツコンテスト。

自分自身の将来の夢。

初めて知った愛という感情。

僕が知らない家族たちの姿。


そして、やがてくる未来――


見てきたもの触れてきたもの全てが、今の僕を作り上げてきた。



「少しは大人になったのかな……」



見上げる夜空は、周りの華やかさで今日も漆黒の闇と化している。たとえそうであったとしても。今の僕の心の目にはその奥に輝く無数の星たちの存在を理解できていた。

僕の今の体験そのものも、きっとそうなのだから。

目に見えない何かの力で引き寄せられて、ここまでやってきたのだから。今の道を信じて進む。それがみんなの、そして自分の幸せに繋がる。


大切な人たちが繋いでくれた想いを味方に、僕は残された日々を全力で生き抜く覚悟を胸に立ち上がった。



「大人になっちゃ、ダーメ!」



不意にかけられたその声に意識を向ける。

そこには、ネギが顔を出した白いビニール袋を抱えたまま笑顔を浮かべる美沙の姿があった。



「おっ、帰り時間ピッタシ! 今日は遅かったんだな」


「うん、ちょっとねー」



僕が美沙の買い物袋を右手で奪うと、すぐさま空席の左の手を美沙に奪われた。そして、偶然一緒になった帰り道を、二人並んで歩き始めた。





「なぁ美沙」


「んー?」


「明日朝から福岡に行くんだ。母さんにあってくるよ」



僕はここ数日の間に起こった出来事を丁寧に説明しながらゆったりと足を進める。彼女は静かに耳を傾けていた。



「そっかそっかぁ。よかったね。最後にお母さんと向き合うことができてー」



きっと。

言葉として、声として伝わってくるそれは表向きな美沙なのだろう。繋いだ左手から伝わるギュッと握るわずかな刺激。

僕はその温もりが、本当の美沙の心であることを感じていた。



「だよねー。うん、そうだな、そうすっか!やっぱ、未来は一緒に、」


――描きたいもんなっ



「うん!セーカイ!ピンポンピンポン!」



その屈託のない少女のような笑顔。僕が何度も救われてきたこの笑顔。きっと守れるのは僕だけだろう。今も、そして、これからも――



「そう言えばさ、さっき大人になっちゃダメって言ってたけど。それってどういうこと?」


「んー?だって大人になっちゃうと、いっくん、セーカイできなくなっちゃうじゃん!」


「ふーん、そんなもんなのかなぁー、大人って」


「うんっ、そんなもんっ」


「さっすがー、よっ、1976年生まれ!」



二人で見上げる夜空の向こうには、きっと同じ景色が広がっている。僕は無性に嬉しくなって、繋いだ左手を振りほどいて走り出した。



「美沙、家まで競争な。負けたら今日の晩飯当番!」


「あー、いっくん、セコイー。待ってよー」



あの日、鴨川沿いの沈みゆく夕方にみた同じ光景を思い浮かべながら、僕は笑顔で走り続けた。


もちろん。

繋いだその心は、離さないままで――

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