第41話 家族ですから。

店の勝手口から平等院表参道に勢いよく飛び出すと、辺りはすっかりと暗闇に包まれていた。その暗闇に広がる湿った空気感が今のざわめき立った僕の心に、ほんの一瞬の潤いを与える。


通りを挟んで店の目の前にある母の実家。

おそらくその一番奥のリビングに祖父はいるのだろう。玄関先まで足早にやってきたものの、僕は一旦立ち止まって大きく息を吐いた。

今一度心の深淵しんえんを覗きこむと、先程の祖母の言葉が蘇った。



――千恵子、お父さんのこと嫌ってたのよね



その言葉を受けてふと心に宿った違和感。

それを引き連れたまま、僕は静かに玄関の扉を引き開いた。



※※※



部屋に入ると、テレビを見ながらソファで一人晩酌中の祖父の背中が視界に入る。今日の出来事を淡々と伝え続けるアナウンサーの柔らかな声と向き合っていた。気配に気づいて振り返る祖父の視線が、すぐさま僕を捉えた。



「おう、お疲れ。どうだ?進み具合は」



そう言いながら右手に持つほぼ空になったグラスをガラストップのテーブルにカタリと置き、テレビを消しながら柔らかい表情を向けた。



「少しお時間、よろしいでしょうか?」


「なんだ、いいぞ」


「いまやってる商品作りなんですが……」



祖父は、ほんの僅かに出来た沈黙を嫌うかのように、「ん?どうした?」と尋ねる。



「…… わさん葛餅くずもちの改良、僕に挑ませてもらえないでしょうか」



それは全くもって予想外の言葉だったのだろう。

祖父にしては珍しく、驚いた顔を見せた。



「レシピ帳、見せてもらいました。葛餅の…… それで……」



暫く無言でジッと僕を見つめた後、「そうか……」と呟いて重そうにソファから腰を上げた。そしてゆっくりと歩みを進め、慣れた手付きで冷蔵庫を引き開いた。



「賢太朗も、飲むか?」


「あ、いえ、まだ未成年ですし……」


「相変わらずお前は真面目だな。まぁいい。じゃあこれでも飲んでおけ」



そう言っておもむろに、いびつな形の空色の瓶を一本取り出しこちらに投げ渡す。



(ラムネ……)


「ありがとうございます」


「まぁそこに座れ」とキッチンテーブルに促されるまま、僕は祖父と向かい合う席についた。



「それ、昔から千恵子が好きでな。母さんが切らさずに常に入れてるんだ。今となっちゃ誰が飲むのやら……。たまに母さんが飲むくらいだ。まだあるから何本でもいいぞ」と軽く微笑んだ。



祖父は、冷蔵庫から取り出した小さな缶ビールをける音を響かせながら続けた。



「あの葛餅はな、元々はみんなのだったもんだ」


「みんなのまかない…… ですか……」


「そうだ。ワシのじいさんがな、この店の従業員のために、そこらへんの余った材料で作ったのが始まりと聞かされとる。まぁなんだ、つまりは3時のおやつだ」


「作るのに相当な手間がかかるレシピなもんで、じいさんは商品にしたくなかったらしいんだが。それでも周りからの要望でな。『この葛餅はみんなの願いから生まれた作品だ』って耳にタコができるほど聞かされたもんよ」


そう言って、口元の缶をゆっくりと倒しながら喉を鳴らした。



ほんの僅かに静寂が包む。

僕はそれに抗うように「いただきます」と少し語気を強めて、飲み口のビー玉を押し落とした。

投げ渡された振動のせいだろうか。瓶の中で勢いよくり上がる炭酸が今にも吹き出しそうになる。

ギリギリのところで止まったその泡が下がるのを待って、中で転がるビー玉に視線を落としながら口に運んだ。


記憶通りのラムネの味。

そう言えば母がまだ生きていた頃、冷蔵庫でよく目にした光景が蘇る。切なさをはらんだ懐かしい記憶が時を超えて再び口の中を刺激した。



「どうして葛餅を改良したいと思った?」



祖父の言葉で僕の刺激は現実に戻る。

らしくジッと答えを待つ目に、思わず心を逸らしてしまいそうになるものの。

口の中にまだ残る僅かな刺激がそれを拒んだ。



「言葉ではうまく言えないのですが…… でも…… あのレシピ帳を見て、そして奥さんから昔の話を聞いて。無性にそうしたいなって、思ったんです」


「そうか、聞いたか……」



未だ整理がつかない思考から生まれた僕の曖昧な返事。それでもゆるりとビールを流し込みつつ静かに続きを待つ祖父に、僕は絡み合う感情を丁寧にほどきながら言葉を続けた。



「大吾郎さんがこの世に生んだ作品を、岡さんが受け継いで、そのあと千恵子さんにバトンを渡して」


「なんだかとても…… その繋がりが、あったかいなって感じました」


「あったかい…… なぁ。まぁ当時はそうだったのかもしれんな。でも今となっちゃ――」


「いえ!今もまだ……」


「温もりを感じるんです」



ほんの少しだけ強まった僕の語気に僅かに驚きを見せるものの、すぐにいつもの祖父に戻った。

僕は両手の中にうずくまる薄青い瓶に視線を落としながら更に想いを続けた。



「岡さん……」


「ん?なんだ」


「どうしてラムネ、まだ買い続けているんですか?」


「そりゃ、母さんに言え。ワシは知らん」


「でも、それでも、毎日眺めてるんですよね」



僕の言葉たちの意味を探るように、

「何が言いたい?」と祖父は静かに視線を向けた。



「それって…… 千恵子さんがいつ帰ってきてもいいようにっていう願いに思えるんです。僕には……」


「岡さん、まだどこかで待ってらっしゃるんじゃないですか?」


「帰ってきてくれるのを」



祖父はまだ半分ほど残るであろう缶ビールを一気に飲み干し、徐に右手で軽くクシャリと潰した。



「他人のお前に! 」


「何がわかるってんだ……」



そのあからむ顔を、消えたテレビのその奥に背ける。

それでも僕は真っ直ぐな視線で祖父の心を離さなかった。



「僕にはわかります!」


「お前に何が――」



「だって…… 親子ですから……」



その言葉のあとに広がろうとたくらむ沈黙を押しのけるように、僕の心の中に浮かぶ素直な気持ちが続く。



「岡さんと千恵子さん、親子ですから……」


「少なくとも、子供の千恵子さんの気持ち、よくわかるんです」


「僕も、同じですから」



(だから、じいちゃんの気持ちも……)




少し熱くなってしまった自分をいましめるかのように、小さく「すまん」と発した祖父の呟きが、暫し続いた沈黙を破った。


僕はその祖父の短い言葉を受けて、再び時を前に進めた。



「きっと千恵子さんも…… 淋しかったんだと思います」



クシャリと半分潰れたビール缶をてのひらでペコリペコリと戻しながら、祖父は言葉を引き継いだ。



「昔はな、千恵子にこの店を継いで欲しくてな…… アイツはワシによう似とるからの。きっと力強くこの店を切り盛りしてくれる。そんな未来を夢見てしまったんだろうな」


僕は黙ったまま、祖父の掌に収まるいびつな姿のビール缶に、視線を向けていた。


「少し将来を押し付けすぎてしまったのかもしれん。もっと千恵子のこと、考えてやってもよかったのかもな」



一瞬、懐かしむような後悔を浮かべた後、自身の照れを隠すかのようにすぐさまそれを打ち消した。



「いや、もういいんだ。昔のことだ。ワシらの手を離れて既にあいつは今を生きとる。元気なら…… もうそれでいいんだ」



僕の目の前にいるのは、ただただ娘のことを想う優しい父の姿だった。

そんな姿に、僕の心に宿った想いが再び主張し始める。今度はしっかりと色付いて。



「大丈夫です。千恵子さん、今も昔も、そしてこれからも、ずっとお父さんのことが大好きです」


「あの日、あのバーベキューの日に岡さんに向けられた千恵子さんの『ありがとう』という言葉は、嘘のない綺麗な声でした」


「けっしてきらってなどいませんから」


「絶対に……」


「親子… ですから……」



そう言った後、僕は祖父の瞳を真っ直ぐに捉えて、ようやく見つけた僕なりの未来を言葉に乗せた。



「岡さん、僕が届けてきます。岡さんの気持ち、僕が千恵子さんに届けてきます。そして、」


「千恵子さんの本当の気持ち。僕がここに持って帰ってきます」



だから、そのために――



「どうしても、三度目のわさん葛餅くずもちの改良、僕にやらせて欲しいんです!」


「お願い…… します」



僕は二人の親子の絆と、二組の親子の繋がりを信じて深々と頭を下げた。


そしてしばらくして、一つの答えが僕の耳に届く。




「ダメだ。それはできん」




その言葉に僕は頭をあげるものの。

それでも未来を信じて、祖父の心を捉え続けた。



「今のお前の腕じゃ、あのわさん葛餅は作れん」



だから――



「明日、朝6時に店に来い。

ほんとうの葛餅、ワシが教えたる」


「まだまだお前一人には任せられんからの」



そういう祖父の顔は、優しくも、温かくも、そして、力強くもある笑みで溢れていた。



「ありがとう、ございます……」



僕はその場で立ち上がり、再び深々と頭を下げた。

感謝の気持ちを最大限に込めて。



その時だった。

祖父の心が、突然僕の中に飛び込んでくる。



「ありがとうな」



目をらしつつポツリと呟いたその『ありがとう』は、まるであの日、母さんがじいちゃんに贈った言葉のような色だった。



※※※



いまだ耳に残る先ほどの余韻たちを明日の自分に重ねながら、宇治橋商店街をゆったりと帰宅していた時だった。



「賢太朗くーん、ちょっと待って!」



突然の祖母の声が、僕の背中に追いついてきた。

僕はその少し息切れた声に振り返りながら「そんなに走っちゃ心臓止まっちゃいますよー。どうしたんですか」と微笑んで向き合った。



「間に合った!これ、持って帰ってー」



そう言って白いビニール袋を目の前に差し出す。



「ん?何ですか?これ」


「あなたが大好きなわさん葛餅よ。まさかまさかの私の手作りバージョンだけどねー。家で美沙ちゃんと食べて」


「え?奥さんも作れたんですか?葛餅」


「もちろんよ。これでもわたしゃ岡家の大奥ですからね。こんくらい出来ないとやってらんないわよ」と、嬉しそうな自慢顔を見せた。



そしてしばらくの立ち話の後、最後に感謝を伝えて歩き出した時、二度目の祖母の呼びかけが再び僕を振り返らせる。



「賢太朗君、本当にありがとうね」


「ん?お礼をいうのは僕の方ですよ」



そう言って、好物こうぶつの入った白いビニール袋を持ち上げてみせると、「そうじゃないの!」と嬉しそうな笑顔がそこにあった。



「ありがとうね…… お父さんのこと」



「もしかして――」と察した僕の声よりもほんの僅かに早く、「えへっ、壁に耳あり障子に目ありね!」というオテンバみた祖母の声が響く。


そしてさらに一言。



「だって、親子だもんねー」



その嬉しそうな祖母の声と、クシャリと崩れたかわいらしいその笑顔に、僕は一つの思いつきを投げかけた。



「そうだ!奥さんも一緒に作りませんか?

そっちの方が絶対に美味しくなるはずですよ――」



「だって、家族ですから!」



今から100年前、みんなの声に後押しされて生まれてきた大切な息吹は、二人の親子に受け継がれながら、今もなお人の心に寄り添い続ける。


僕がずっと探し求めていた老舗の味は、一番近くのいつもの日常に、そっと隠されていたのだった。


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