第21話 平成男と昭和女。

「ねぇねぇ――」


「ん?どした?」


「ねぇねぇねぇねぇねぇ――」


「.........」


「ねーねーねーねーねーねーねーねーねーねーねーねーねーねーねぇんっ」


「コラ!集中!!まだ一問も解いてないぞ」


「え――、だって――、わかんないんだも――ん」


「じゃあ、教えてください!でしょ?フツーは。

全くやる気ないじゃん」


「だって――。面白くないんだもん」



正面には、っぺたを子供のようにプクッと膨らませた美沙。夏休みの課題を投げ出して既に戦意喪失し、意識は別のところにいこうとしている。今すぐ首根っこをつかみ、無理矢理にでも机に向かせてやりたい気分になるが、こうなってしまった美沙は所謂いわゆる無双なのだ。

ここは一旦、流れを取り戻すために泳がせておくことにした。


今日僕が帰宅すると、まだ美沙は帰っていなかった。余りの忙しさに珍しく1時間ほど残業したとのことだった。こんな日は、夕食の準備やお風呂の支度など、家事全般は全て僕の仕事になる。もう既にこれが暗黙の了解でもあるので、いやな顔一つせずに取り組む。どちらかと言えば主夫仕事は楽しい。自分で考えた段取りを順序よく黙々とこなしていく。いやな雑念を全て忘れさせてくれる癒しの場なのだ。全くってグッジョブな時間。

丁度夕飯を作り終えたところで突然電話が鳴った。涼子さんからだった。

予定ではお盆前に帰京する筈であったが、学生時代の友人たちと遊ぶとのことで帰京はお盆明けになるという連絡である。

美沙から涼子さんの秘密を打ち明けられ済みの僕は、羽が生えた鉄砲玉のような彼女に無論一言いいたい気持ちはあったのだが、今のところ親子の事情にまで首を突っ込む勇気もなく、すんなりとそれをうけたまわった。

「気をつけてくださいね」と最後の気遣いもできるくらいには成長していた。


そんな流れの1日の終盤、家庭教師の時間。

今まさに、美沙のが発動した場面である。比較的時間の使い方が合理的な僕は、この無双時間を有意義に使うべく先にお風呂に入る旨を美沙に伝えて立ち上がった時、美沙からの不意な一撃が耳に届いた。



「一緒に入っちゃおっかなぁ、久々に!」


(......入ったことないじゃん。一緒に)



僕はその予想外の言葉に一瞬ドキッとしながらも心でツッコミを入れて振り向くと、オテンバぶくみのニヤッとした口角の笑顔があった。



(――この顔は付き合っても大丈夫なやつ、いや、会話の駆け引きに付き合わなきゃいけないやつだ!)

咄嗟とっさに判断して言葉を返した。



「初めてだね、一緒に入るの...」と作り照れ顔の僕。


「じゃあ、先に入るから。呼んだら来てね!」

と美沙の先手。



(うっ、主導権、取られた!は、早い!既に洗面所に......)



この流れの終了イメージは、美沙が恥ずかしがって『参った』するのが理想なのだが、なかなかそうはさせてもらえず。いつもは僕が折れて終わるパターンがほとんどである。とは言え、ここで間違って入ろうものなら。経験上、更に過酷な結末を迎える予感しかしない。



「いっくん、来ていーよー」



その声を耳にした僕は洗面所に向かい、カラカラと恐る恐る扉を引き開ける。美沙の抜け殻とボンヤリとしたシルエット。一つ屋根の下で暮らしていると、このくらいのニヤミスは幾らでもある。

僕も世の中のいわゆる18歳男子と同じだけの欲望もある。妄想力は果てがないと言っても過言ではないのだ。

それでも、不思議と美沙にはそんな男子心を向けることができずにいた。けっして美沙に魅力がないという訳ではない。とても魅力的なのだが――

何故か不思議と、肝心なところで心の自制が強く働くのであった。



(大切にしたい気持ちが強いのかなぁ...)



そんな不埒ふらちな思考問答を繰り返しているところに、美沙の声が響く。



「ねぇ、いっくんのお母さんって、どんな人だったの?」



若干追い込まれ気味の僕の思考に美沙の正常な問いかけ。母の話題で暴れ気味な思考が一気にクールダウンし、正直ホッとしていた。



(僕の母さん......かぁ...)



僕は小さい頃はよく怒られていた記憶が強い。

一人っ子でそれでいて男の子だったからかもしれない。将来伊藤家を継ぐ素質をそれとなくいつも問われていたような気がする。勉強面でも常に成績を気にされていた。と言っても、僕が12歳までの記憶であるが。皮肉にも母の死が僕の心を解放した。

それ以降は母とは方針が180度異なる父の元で育った。一見放任主義ではあったが、今思えば責任と結果の連動性を伝えたかったのかもしれない。

何も言われなくても父が満足いく結果を出した事柄に対しての褒めようは半端なかったのだ。



「母さんは強くて一生懸命で厳しい人だった...... かな」


「ふーん。そうなんだ。ところでいっくん、明日は何話すの?お母さんと」


「何って......そりゃあ――」



僕はその続きが出てこなかった。

明日のこの時間には既に結果は出ているだろう。

今日偶然にも母と対面した時は、仕事中の忙しい時間帯であったことや祖母の目もあって、心中とは裏腹に会釈程度しかできなかった。

それでも母の手に触れたぬくもり。もう二度と会えないと諦めていた母との対面に嬉しくない筈もない。

明日の流れ次第とは言え、自分が未来からやってきたあなたの息子であることを伝えたがっている僕がここにいる。



「言っちゃいなよ!思い切って」



なぜ美沙は手に取るように僕の気持ちがわかるのだろうか。僕が迷っているのはまさにそのことであった。



(また美沙に......決めてもらうのか?僕は)



向き合うと決めたのは自分。

事実を伝えるという向き合い方もあれば、そっとしておくという向き合い方もある。どっちかに必ず正解がある世界ではない選択肢。無論『解なし』でもない。



「母さんを感じてみたいんだ......明日は」



明日に求めているものは確かに大きい。

それでも求めてはいけないものとの差が僕にはまだわからなかった。そんな中で言えること。自分の中だけでそっと消化できること。明日が本当に最後のお別れになるかもしれない。

僕の想いがまるで振り子のように行ったり来たりを繰り返していると再び美沙の声が優しく響いた。



「納得できるといいね。私はどこまでもいっくんの味方だから」



僕はまた美沙に救われようとしている――



「ありがとう!」

「さてさて。そろそろ入ってもいいかなー?美沙」


「うん!今甘えたいのなら入っておいで!

いっぱーいヨシヨシして甘えさせてあげるから」



美沙は意地悪の天才だ。

平成男。やはり昭和女には勝てない定めなのか――



「僕を甘えさせたかったら、いつでも呼んでな!じゃ、向こうに行ってるし!」



僕は美沙の反応を確認もせずに、負け惜しみとも取れる一言を浴室に響かせ和室に向かった。



(明日が過ぎたら、きっと何かが変わってるはず――だよな...)



精一杯の強がりを、今夜も美沙は何も言わずに受け止めてくれて、僕と美沙の擬似夫婦漫才は幕を下ろす。



(まぁ今日はお盆休みということで、家庭教師はもう勘弁してやろうか――)



一人で吐露とろする二度目の負け惜しみは、ほんの少し僕の心を優しく落ち着かせてくれた。

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