第44話 今までも、これからも。〈後編〉

「あー美味しかった。イックンごめんねー、夕飯任せちゃって」


「いえいえ、今夜泊めてもらえるお礼ですよ。でもこんな簡単なモンで本当によかったんですか?」


「いいのいいの!いっくんのふわっふわオムライスは今日もサイコーなのだーっ。しかも博多バージョン明太子入り、イェイ!」


(おいおい、それ美沙が言うことじゃ……)


「あ、美沙、それ食べ終わったら次は片付け班の出番だぞ!」


「はーいっ」



このマンションに到着して1時間半が過ぎようとしている。キッチンテーブルにある少し小さめの置き時計は午後9時付近を指していた。

今夜の夕食は、お礼も兼ねて僕たち二人が振る舞うことになってはいたのだが。結局「チー姉ちゃん、いっくんのオムライスってサイコーに美味しいんだよぉ」という一言でこのような流れになったわけで。


それでも。母の喜ぶ顔が見れたことに僕は満足していた。まさかこの歳になって母に手料理を振る舞う日が来るだなんて。たとえ僕の記憶の中で生き続ける母とは別の母だとしても。こうやって成長した姿を披露できた事自体が、今の僕にとっては大切に思えた。


目の前でいまだ繰り広げられる女子会を余所目よそめにふと部屋を見渡す。シンプルな家電や雑貨屋などで手に入れたであろう小洒落こじゃれたアイテムが目に入る。やはりその中に僕の記憶に残るものは何一つ見当たらなかった。

僕が生まれるまでのここからの8年間に起きる出来事たちが今の母を少しずつ変えていき、そして僕が知る母を形作っていく。今この瞬間でさえも、きっとその出来事の一つなのだろう。そう思うと、とても不思議な気分だった。



「さてと――」


「じゃあ洗い物、はじめちゃおっかな。チー姉ちゃんといっくんは隣のリビングでゆっくりとおくつろぎくださいましー」


「あ、いいのよ美沙ちゃん。後片付けくらい私がやるから。こんなにしてもらっ――」


「ダーメっ、私も活躍するの。チー姉ちゃんの役に立つのーっ!」



そう言われて僕たちは半ば強制的にリビングへと追いやられて扉が閉まる、と思いきや。まだ少しだけ残る隙間から、うつむき顔の美沙が一言告げた。



「絶対にこっちに来ちゃダメよ。見られたら私… お月さまに帰らなきゃいけなくなるの…… お願い」



そして静かに扉は閉まった。



母は「美沙ちゃんってほんと面白い子ねー」と苦笑いを浮かべ、「せっかくだからお言葉に甘えちゃおっかな」とテーブルの上にあるテレビのリモコンを手に取りながらひらたいクッションに腰を下ろす。僕もそれにならった。





「それはそうと。お二人はどうなの?順調?

って今日の様子なら聞くまでもないわねー」


「千恵子さんこそ。彼氏さんとの結婚話、早く進めばいいですね」


「そうね。でもまずは家族に紹介しないとなー。この前は失敗しちゃったし」と苦笑いを浮かべる。


「大丈夫ですよ!きっとうまくいきますから」



美沙が作ってくれた母との時間。

打ち合わせることもなく、流れのままにできたこのひととき。もしも続きをつむぐとしたら。


この物語は、僕自身にゆだねられていた。



「あ、そうだ。千恵子さんにお土産持ってきたんです」



そう言って、一旦リビングの隅に追いやっていた僕のスーツケースを再び表舞台に呼び戻す。その中に仕舞しまっていた保冷剤入りの銀袋から中身を取り出し、まだ冷たい感覚が残るそれを手渡した。



「ありがとう。開けてもいい?」


「はい、もちろんです!」と明るく伝える。



まだ細くて若々しい母の指先が、丁寧に巻かれた無地の包装紙を剥がしていく。



「あー、葛餅ね。最近、食べてないなぁ。いい?」



僕が首を縦に振ると、母は付属の竹楊枝たけようじで静かにそれを口に運んだ。そしてその味を確かめるように、まだ箱の中に残るいびつな葛餅たちに視線を向けていた。



「これ、イックンが作ったの?」



シンプルな母の問いに、僕は笑顔で答える。



「はい、僕も作りました」


「……も?」



母は静かに僕を見つめていた。



「これ、みんなで作ったんです。和也さんとお母さんと、」


「――そして、お父さんと」



その返しに、母は柔らかいみを浮かべ、小さく「そっかぁ」と呟いた。



「なるほどねー。だからかぁ、この味」


「どう、ですか?」


「うん、美味しい!ありがとね」



その一見明るい笑顔に潜む母の気持ち。

嬉しい?懐かしい?いや、きっとそれは一言では言い表せない複雑な想いが絡み合ったものだ。

そう僕の直感が主張していた。



「懐かしいなぁ。そういえば昔ね――」


「昭和58年、ですよね…… レシピ帳見ました。今の葛餅、千恵子さんの味なんですね」


「僕が一番好きな味です」


「うん、ありがとう。確か中学の夏休みだったかなぁ。あーでもないこーでもないって朝から晩まで店にこもってねー」


「あの時は楽しかったなぁ……」



そしてしばし時が止まる。

途端とたん、今まで静かに潜んでいた聞き慣れないテレビCMが耳に届く。僕はその画面に視線を預けながら、母の続きを待った。



「あー、色々と思い出しちゃうなぁ。楽しかったことも、そうでなかったことも」



柔らかい笑みを浮かべ、目の前の葛餅くずもちに視線を落とし続ける母。その姿はまるで、心の奥底で密かに眠り続けていた自身の記憶と対話しているようにも思えた。



「もしかして千恵子さん――」


「んー?」


「後悔、してますか?」



母の表情が一瞬変わる。

そしてすぐに、柔らかい笑みに戻った。



「後悔、なのかなぁ…… 今になって思うとねー。

若かったんだろうな、きっと」


「ちょっぴり苦い想い出、かな」


そして何かの陰りを振り払うかのような明るい声で続ける。


「まぁ、親の気持ちくらい分かる年になっちゃったってことねっ」



僕は、祖父の言葉を思い出していた。



「お父さん、言ってました。あの時、千恵子の気持ち、もう少し考えてあげたら良かったって……」



「……やっぱり気にしてたんだ」



僕は、小さくそう呟く母に、

「だって親子ですもんね!」と笑顔を向けた。



「お互い、意地っ張りだったからなぁ」


「今も…… ですか?」


「んー」



何かをはぐらかすような母に、僕は言葉を向けた。



「本当にいいんですか…… このままで……」



そしてそれ以上は何も言わず、目の前の母の心を静かに待った。きっと自分でもわかっているはずだと信じて。


やがて母は観念したような笑みを浮かべて、大きく息を吐く。



「忘れた……」



その時だった。

キッチンへと繋がる扉が静かに開く。

『旅』という文字が書かれた緑色のエプロンをまとう美沙の姿がそこにあった。と同時にあの時と同じ香りが僕たち親子をふわりと包み込む。そして、何も言わずに母の前にコトリと差し出した。


美沙は、からになった丸盆を胸に抱えこみ嬉しそうな微笑みを浮かべていた。



「はい、どーぞ」

という声で、母はそれに気がついた。


「旅……」


「はいっ、旅する喫茶店にようこそ、です!」



カップの中で、黒い波紋がキラキラと揺れている。



「バーベキューのあとにもらった美沙ちゃんのお土産…… そっか…… ここであの珈琲飲んだとき、私…… 」


「そういうことなのね……」


「はい!」と美沙は明るく答えた。



そして僕は美沙を信じて、再び母と向き合った。



「千恵子さん、もう一度。

あの頃の自分と、そして――」



それでも母は何も言わず、葛餅をもう一つ口に運んだ。再び意識に届いたテレビの音。いつのまにか、聞き慣れたアナウンサーの柔らかいものに変わっていた。



「……いまさら、だなー。あの時、父さんにひどいこと言って傷つけちゃったし」


――こんな家に生まれなきゃ良かった、って



そう言ってうつむく母を、僕は捉えて離さなかった。



「そうやって、逃げますか?」



その言葉に少し驚いたのか。

母は顔を上げて僕を見つめた。



「和也さん、本当は自分が何とかしないといけない、と。優しい姉想いな声でした」


「お母さん、いつでも帰っておいで、と。本当に優しい目をしてました」


「そしてお父さん、今の千恵子が幸せならそれでいい、と。素直で優しい父の顔でした」



僕は伝えた。

家族それぞれの想いを込めて。

そして待った。

あのレシピ帳の頃の家族の姿に、もう一度戻ろうとする母の心を。


だからこれ以上はもう

言葉はいらない――


そう思った。



そして、再び時は動き出す。



「そうね、きっと…… うん、わかってる」



と、まるで自分を諭すように。



「美沙ちゃん!」


「はいっ」


「ありがとねー。気持ち、すっごく嬉しい。

うん、ちゃんと受け取ったよ!」


「でもね、私、」


――この珈琲、いらないわ



そう言ってカップに目を向けた。



「これは私自身の問題だから。自分の力でなんとかしたいの」


「はい!」


「じゃないと、うん、私らしくないじゃない!」


「はい!!」


「だから明日、京都に帰るわ。二人と一緒に」


「はい!!!」


「それから…… 」

「うん、いっぱいありがとね、美沙、賢太朗」


「はい!!!!」



(ははっ、僕の母さんだ! あのじいちゃんの娘だ!やっぱスッゲーや)



今を生きる目の前の母が出した一つの答えに、僕は記憶の中で生きる母の姿を見た気がした。



「思った通り、やっぱチー姉ちゃんだねー。ほんっと負けず嫌いなんだからー」


「違うわよ!負けるのがイヤなんじゃなくて、納得してスッキリしたいのっ」


「美沙ちゃんの天満宮とおんなじよっ」



笑い合った二人のやりとり。

すっごくお似合いだと思う。

うん。本当にそう思う。



「せっかく淹れてくれた珈琲だけどごめんね。これから先、もし美沙ちゃんに助けたい!って人が現れたら。それまでこの珈琲は取っといてあげて」


そういう母の言葉を受けて、「あ、そだ!いーこと思いついた!」と不敵な笑みを僕に向ける。



(ん?なんだなんだ?)



「いっくん飲んでよー、コレ。捨てるのモッタイナイしさぁ」


「えっ?僕が?いま?ここで?」


「そそっ。いーことあるかもよぉ」



母の目の前の白い珈琲カップが「どうぞぉ」という母のニヤケ顔と共に、僕の前にスライドされてきた。

僕は美沙の珈琲の力を知っている。体から意識が急に飛び出したこと。パルプンテな珈琲。コンテスト仕様の旅する珈琲。そんな経験たちが頭の中を走馬灯のように駆け巡った。


僕はゴクリと生唾を飲む。目の前の漆黒の闇色に思えるそれが僕に迫っていた。



「いらないのー? 冷めちゃうよぉ、もったいないよぉ、早く飲んでよぉ」



(美沙、チョーコエーんだけど)と目で訴えるも、「幸せになれるんだよぉ、きっと、いや、たぶん」と脅しにも似たイタズラ顔で迫り来る。


隣の母は「飲んじゃえ飲んじゃえー」と陽気な様子だ。他人事だと思いやがって。



「なぁ美沙」


「んー?」


「これ飲むと、どうなるの? も、もしかして――」


「うーん、それはいっくん次第ねー。どうなっちゃうんだろうなー。クワバラクワバラー」と微笑む。



(なんだ、この人生を掛けた罰ゲーム感は……

まぁでも、きっとそういうことだよな。自分で決めなきゃいけないことなんだよな。これも)



そして僕は意を決し、精一杯の想いを乗せた眼差しで美沙に告げた。



「これは僕自身の問題だから。自分の力でなんとかしたいんだ」


「……」


「じゃないと、僕らしくないしさっ。うん」


「んー?」


「だから、今はまだ、飲めないんだ」



その最後の言葉を受けて、すかさず美沙が続いた。



「あーっ、逃げたなぁ!」


(やっべっ、バレた!)



「あ、そうそう、珈琲じゃなくて実は冷たいジュースが飲みたかったんだよな。ち、千恵子さん何か頂きますねー」


そう言いながら僕は隣のキッチンに逃げ込む。そしてため息混じりに冷蔵庫を開けた。


その時だった。


一番上の段の隅っこに横たわるそれが、僕の視界に映る。それはまるで、ずっと探し続けていたものが不意に目の前に現れたような感覚だった。



(やっぱ、あるんじゃん……)



僕は微笑みながら冷蔵庫からそれを取り出して、リビングに向かう。そして、自慢気な顔で堂々と告げた。



「今日飲みたいのは、こっちな!」




何もないだろうともうあきらめていた。

だけど。やっと見つけた母の面影。


今までも、そして、これからも。


ずっと繋がっていくこの味は、僕の心の中にある懐かしい記憶たちをシュワシュワと優しく刺激した。

薄青色の瓶の中で揺れる、ビー玉の黒い輝きとともに。

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