第45話 らしさ。

朝が早かった生活習慣の名残だろうか。

二人がまだ別室で眠る中、僕はリビングで目を覚ました。カーテン越しにほんのりと浮かぶ夜明けの色は、今日も晩夏の残暑を予感させる。


テーブルに転がる一本のペンを眺めながら、僕は昨夜の記憶をぼんやりと辿っていく。


そして、上半身を目一杯伸ばして天井を仰いだ。



(ちょっと冒険してみっか、)



僕は、軽く身支度を整えて二人に気づかれないようにキッチンへと向かい、テーブルに一枚の置き書きを残して一人マンションを後にした。





まだまだ容赦のない熱気が襲う日中とは異なり、外は凛とした清々すがすがしい空気で満ちていた。

先程よりも少し明るみを増した空が、昨日は気づけなかった街の姿を映し出す。


比較的新しい家々が立ち並ぶ閑静な住宅街。

電線の上でさえずる寝起きのすずめたち。

青々と繁る公園のソメイヨシノの葉が、まだ眠たそうに風に揺れる。


自然と人が違和感なく馴染むこの街は、なんとなく宇治の街に似ている。そんな気がした。



(だからここ、なんだろうな)



来た道を見失わないよう街の雰囲気を心のままに歩いていると、ふと鼻先をくすぐる磯の香りに気づく。そしてそれに引き寄せられるようにさらに歩みを進めた。





「おー、」



背の低い防波堤に寄りかかり眺めを見渡すと、爽やかな磯風が優しく頬をでた。

大きく翼を広げたような白浜が穏やかななぎをそっと包み、その向こう側の差程遠くないところには人の営みを感じさせる半島が見える。


僕はそこから続く階段をつたい浜辺に降りた。

足裏から伝わるこそばゆい刺激を味わいながら小山を刻んで波打ち際へとゆったり歩く。

そして、乾いた砂上に腰を下ろした。


静かに打ち寄せる白波がわずかに足先濡らし、そしてまた、いたずらっ子のような顔で距離をとっていく。



美沙が言うように。

もしこの世界が残りあと2日だとして。

目の前で行ったり来たりを小さく繰り返すその波のように、僕は残りの日々のを探し続けていた。



(26年、かぁ)



きっと。

僕にとってそれは一瞬のことなのだろう。



(でも……)



まだ18年しか経たない僕の人生に、その26年というあまりに長い月日を被らせてみる。

僕の中にある本音と、経験が乏しいながらにも一丁前に主張する、らしさという美学が激しく葛藤していた。


僕は座ったままの姿勢で、偶然右手がつかんだ小石を何気なく海に投げ入れた。そして優しくほぐれる波の音に重なったその小さな波紋をぼんやりと追う。

一定の速さで広がりながらもやがては減衰し、他の波に飲まれて姿を消した。


そして、もう一度。


今後は大きめの石を選び、先程よりも遠くに投げた。そんな雑波にもくじけない、もっと強くて大きな波紋を作りたい。ただ単純にそう思っていた。



※※※



「やっぱり。ここにいたっ」



どれだけ時がすぎたのだろう。

その聞き慣れた声に意識を向ける。いつものスニーカー片手に、素足で歩みくる笑みを視界が捉えた。


そして、僕の横で静かに立ち止まる。


ほんのりと気持ちのいい潮風になびく彼女の黒髪が、いつのまにか顔を出していた朝陽に照らされて美しく揺れている。



「よくわかったな、ここ」


「へへっ、私を誰だと思ってるのっ」



その自慢げな顔に、

「そうだな」とつられて返す。



「そろそろ帰ってきてだって。朝ごはん!」



名残惜しそうにつきまとう白砂たちを両手で払いながら立ち上がり、今度は形を選んだひらたい小石を低く投げ入れた。

筋雲がなびく朝陽色を映した穏やかなキャンバスの上を、まるでトビウオのようにキラキラキラと走っていく。



「明日で夏休みも終わりなんだな」


「そうだねー」



彼女の後ろ姿を感じながら、

しばらく波打ち際をゆったりと歩く。



「なぁ美沙」


「んー?」


「京都に帰ったらさっ。母さんのこと、任せてもいいかな?」


「少しだけ。一人の時間が欲しいんだ」



背中で受けたその言葉に何も返さないまま。

彼女は小石を拾い上げ、僕を真似まねて投げ入れた。



「母さん、あの様子なら僕が居なくても大丈夫だろ」


「そうねー」


「まぁ、こっちの言うことを素直に聞くような性格でもないしさっ」と苦笑った。



もう一度投げられた彼女の小石が、今度は2度海面を小さく跳ねる。「ねぇ、見た見た?今跳ねたよね?跳ねたよね!」と嬉しそうにはしゃいだあと、いつもの笑顔を僕にくれた。



「いいよ。全部いっくんの思うようにするっ」



流されながら、戸惑いながら、そして楽しみながら走り続けてきた夏の日の1994。

いつかはやってくると感じながらも目を背けてきたこの旅の終着点に、ようやく今、自分らしさを見つける事ができたような気がした。



(やっぱ、これが一番いいんだろな……)



「ごめんな」



その僕の呟きは、小さく響く白波に飲まれて、

朝の浜辺に静かに消えていった。




※※※※※※



今朝9時すぎに母のマンションを出発して4時間。

僕たちが乗車する新幹線は何事もなく京都駅に到着した。駅構内は観光客やサラリーマンの人々で賑わい、普段と変わらない日常を映している。


僕たちはその人波の流れのままに、

在来線の乗り換え口まで歩いた。



「じゃ千恵子さん、僕はここで失礼しますね」


「あら、どっか行くの?」


「はい、ちょっと寄りたいところがありまして。代わりに美沙を連れてやってください」



そう言って浮かべた笑みに、

「チー姉ちゃんのことはお任せあれー」と、

自慢げな顔を見せる。



「OK、わかった。じゃあそうさせてもらうわね」


「それはそうと。夏休み最後の旅行だったのに。なんだか付き合わせたみたいになっちゃって…… ほんとにごめんね」


「いえいえ、そんな顔しないでください。らしくないですよ!これでも思った以上に楽しめたんですから。なぁ、美沙」


「うん、そうそう!梅のお餅も美味しかったしー、天満宮の弟さんへもお参りできたしー」



(うっ、ついに弟にしてしまったのか。こりゃ相当悔しかったんだろうな…… まぁ美沙らしいっちゃー美沙らしいんだけど)



「それにチー姉ちゃんの私生活ものぞけたしねー。あ、いっくんにはあとでこっそり教えてあげるから」


「チー姉ちゃんのおっぱいが意外とおっきかったこととかぁ、彼氏さんとのあまーい恋のお話とかぁ」


「ねっ、聞きたいでしょー?」



少女のようなイタズラ顔が覗き込む。



「アホ、そんなの聞きたくないわ!誰が好きこのんで自分の…… 」


「あ、いや、」



(ずるいぞ、その言い方!危なかったじゃないか)



心の声を美沙に向けたあとチラリと母を盗み見ると、嬉しそうにクスクスと笑う姿があった。



「いやー、ほんといいコンビねー」



そう微笑みながら、母は続けた。



「実はね、正直父さんと向き合うの、今でもちょっと怖いんだ」


「まぁずっと逃げてきたからなー」



俯きがちにそう言ったあと、

再び視線を上げる。



「でもね、二人見て思った!それじゃあ全然らしくないなーって。うん、這ってでも前に進まなきゃねっ」


「へぇ、チー姉ちゃんでも怖いって思うことあるんだねー」


「そりゃそうよ。私をなんだと思ってたの?これでも普通のカヨワイ女子なんだから」


そう言い切ってペロッと舌を出す。


「じゃあ、私と一緒だねー」


美沙も同じく。



(カヨワイ普通の女子が目の前に二人…… イヤイヤ―― ゴジラとか?ウルトラマンの母とか?)



「なに妄想してんの!エッチ」



僕の心のツッコミに勝手に土足で入り込んだあと、

美沙は言葉を母に向ける。



「ところでさ、チー姉ちゃん、」


「んー?」


「いつ向こうに戻っちゃうの?」


「んー、できれば今日はこっちに泊まりたいんだけど。でも明日はチョーハードな月末だしなー。うーん……」


「まぁ、今日の流れ次第ってとこだねー。はてはて。どーなることやら」



そう言いながら肩をすくめたちょうどその時、大きめの美沙の声が改札口に響いた。



「あっ、乗り継ぎ出ちゃう、急がなきゃ!」


「わっ、ヤバイ、あと1分!急ごう急ごう。じゃあイックン、ここで。色々とありがとね。またいつか!」



そう言って慌てたように右手を差し出す。

僕はそれをそっと両手で迎え入れた。


今の母にとって。

きっとこれは単なる日常の別れの儀式の一つにすぎないのだろう。



それでも僕にとっては――



その細くて、柔らかくて、そして温かいてのひらに、こっそりと記憶の中の母を重ねる。


僕は、その想いに心からの笑顔を添えた。



「じゃあ、また!」



そして何事も無い素振りで、手を振りあって二人と別れた。僕は見えなくなるまでその後ろ姿を見つめ続けた。


そして――


(さっ、行こう!)



僕は再び。

1994年の世界を一人きりで歩み始めた。




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京都嵐山の、旅する喫茶店へようこそ。 結衣こころころころ。 @te6075

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