第16話 賢太朗の迷い。
(遅くなっちゃったな。熱中しすぎて連絡するの忘れちゃってたし...もしかして怒ってるかも......)
僕はすっかりと人通りが少なくなった夜中の宇治橋商店街を足早に抜けて家路を急いだ。
「ただ...いま...」と小声でそっと玄関を開ける。
「あ、おかえりなさい。遅かったのね」とすぐに見つかる。
「うん。没頭してたら遅くなっちゃった。ほら今度のスイーツコンテストの試作品作りで」
「ふーん。で、どっちの案になったの?」
「速攻で、
「でしょー!だから私は羊羹だっていったの。私の勝ちー!いっくんの負けー!へへっ」
帰宅が遅くなった僕は、その嬉しそうな笑顔に少しホッと胸をなでおろした。僕が
テーブルの上には、
今まで文句を言われながらも、更に言うと、駄々をこねる子供をあやしながらも、騙し騙しコツコツと続けてきた僕の努力に心の中で賞賛を送った。自画自賛ってやつだ。
「ところで涼子さんって、いつ東京から帰ってくるんだっけ?」
僕は、電子レンジで再び蘇った八宝菜の温もりを口の中で転がしながら、ふと脳裏をよぎった疑問を美沙に投げかけた。
「んー、いつだっけ? たぶん... 来週?」
最近少し感じていたが、どうも美沙は涼子さんに対してあまり興味を持っていないように思える。嫌いとかではなく、なんて言うか、どうでもいい感じと言うと近いだろう。
既に母がいない僕からするとどうしても、もったいないと感じてしまう。確かに自分自身を振り返ってみれば、家に帰ると母がいることが当たり前だった当時は同じようなものだったのかも知れない。
以前、この「居なくなって初めてわかる大切さ」をそれとなく美沙に伝えたことがあったのだが、「うん。わかったー」と気の無い言葉が戻ってきたことを思い出す。
その時は、それ以上何を言っても無駄な雰囲気に負けてしまったのだが――。
「一人しかいない親は大切にしなきゃなー」
ほんの僅かに美沙に聞こえるひとり言を、
「大切にされたら、もっと大切にしてあげる!」
と言う美沙からの返事。
夕飯たちから顔を上げると、少女のような悪巧みな笑顔を浮かべていた。この会話の流れだと、きっとそれは涼子さんへ向けたものであろうが、僕はやけにその一言にドキリとしてしまっていた。
「次に遅くなるときは、ちゃんと連絡するから。今日はごめんな... さい...」
ドキリとしてしまった心当たりを消化させるべくそう答えた僕に向けて、今度は嬉しそうな笑顔が飛んでくる。まるで、『せーかい!』とでも言っているかのように。
(もしかすると、美沙じゃなくて涼子さんの方の改革が必要なのかもしれないな......)
そう気づいた瞬間、再び頬が和らいだ。
自分の想いを真正面から伝えることは、今も昔もやはり難しい課題なのだろう。
※※※※※※※※ ※※※※※※※※ ※※※※※※※※
「あー、わかんない! ――
ダレよ!
「まぁまぁ、そう言いなさんな」
「しかも、将来の私になんも役に立たないのに......」
「いやいや、近い将来は役にたつぞ。ほら入学試験とかに」
今日の彼女の家庭教師モードはこんな感じだ。
やや荒れ模様。曇り時々文句とでも。
時計をみると夜の11時半を指していた。いつもの家庭教師を始めて既に1時間が経とうとしている。
つまりは、もうこれ以上続ける燃料が枯渇したことを表していた。
「じゃあ、今日はここまで。続きはウェブで!」
「ん?ウェーブって何?」
(そうだった......時代が違うんだった)
「ごめんごめん。ひとり言」
いつもの元気な時の彼女であれば、追及の手を緩めずにさらに激しいツッコミがやってくるはずなのだが、流石に今日は疲れているらしい。アッサリと心が去って行ってしまったようだ。
やや疲れ気味の僕と、既に思考が停止しそうな美沙は、ランダムに寝そべり同じ天井を見上げていた。
僕は天井に描かれた木目調の線をゆっくりと目で追いながら、今日祖母に言われた事を思い出していた。
(15日まであと11日...かぁ)
僕は未だに迷っていた。
もちろん美沙をそこに連れて行くこともそうであるが、そもそもそこに参加するべきかどうかということまでも。
未来が変わるとか云々については、既にこれほどまで影響を与えてしまった今更感が大きく、正直、もう元の世界に帰れなくてもいいやと思う自分がいたりする。もっと責任ある能動的な表現をすると、帰りたくない、という自分が。
この世界で大切なものが増えていくにつれ、日に日にその気持ちは膨らんでいくのがわかる。
迷っているのは自分自身の心の問題が大きかった。ただただ嬉しいのか、切なくなって泣くのか、それとも
―― 怖くなって逃げてしまうのか。
今日祖母から話をもらって以降、幾らその場の状況を想像しても、その結果の自分像がついてこなかった。
この世界に来てすぐの時は、会いたい気持ちがあれほど溢れていたのに。
「なぁ美沙」
「んー?」
「僕の母さんに会いたい...かい?」
気がつけば、僕は美沙を頼っていた。
会いたいと言って欲しい気持ち半分。会いたくないと言って欲しい気持ち、もう残りの半分。
そして、どっちでもいいが0パーセント。
(僕はずるいやつだ。意気地なし...)
「いっくん、会わなきゃダメ!」
そんな情けない思考に飛んできた不意打ちな一言。
僕は一瞬、いや、もっと長い間止まってしまった気がする。僕は上半身だけその場で起こし、美沙に目をやる。彼女の言葉に込められた真意を探っていた。
彼女は僕の本音を見透かす力がある。
それは僕自身も気がついていない本音かもしれない。彼女の語気の強さから、
「 ―― うん、そうする... よ...」
僕は美沙に打ち明けた。
働いている職場が母の実家であることを。
そして15日に初めて会う機会ができたことを。
今思うと美沙に隠す必要はさらさらなかったと思う。きっと彼女に隠したのでなく、自分から隠したかったのだろう。
その事実に蓋をすることで、いずれ来るであろうその対面の瞬間から逃げていたんだと気づいた。
「私も連れてってね!」
僕の不安を知ってか知らずか、美沙はお
そして僕の声なき微笑み。
それでも美沙にはしっかりと届いていた。
「今はまだいいの。それで」
そして更に一言。
「わたしが、いるじゃん!」
(そうだな。そうだったな...)
今の僕にとっては、美沙が描く未来予想図が、唯一の羅針盤となっていた。
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