第35話 行ってきます。

僕たちが喫茶北野を後にしたのは午後1時を過ぎたあたりだった。結局北野さんは仕事を理由に同行せずに、僕と美沙の二人での嵐山散策となった。

旅の内容は、と言うと『嵐山をもっと知りたい』という美沙の希望も相まって、寺院などの歴史的名所巡りの旅に決定する。

美沙曰く「お客さんに聞かれた時に困るでしょ?」だそうだ。早くも喫茶北野で働く自分の姿をイメージしているのだろう。自分の興味のあることだけは驚くほど積極的になる。実に美沙らしい結末に、自然と頬も緩む。

もし何らかの手違いで美沙がにでも興味を持ってしまったとすれば。彼女の行動力や目的を達成するための執念を考えたとき、きっと結構いい大学、いや、もしかして京都大学の医学部でさえ合格しそうな予感がしてしまう。


それはさておき。

喫茶北野でお昼のナポリタンを食べながらじっくりと練り上げた散策プランに沿って、僕たちは竹の小径こみちを徒歩で抜けて先ずは常寂光寺じょうじゃっこうじへ向かった。ここは平安の歌人、藤原定家の山荘「時雨亭しぐれてい」があった場所で、全国的には紅葉もみじがとても有名である。

秋になると境内にある200本あまりの紅葉の葉が辺り一面を赤く染めあげる。とても幻想的な景色だ。夏は夏で、青もみじの葉がの光をやわらげ、涼しげな色を醸す。葉の隙間から漏れ落ちる凛とした光の筋の中、僕たちは手を繋いでゆったりと過ごした。


その後、そこから歩いてすぐの二尊院にそんいん、更にそこから程近い祇王寺ぎおうじ。そして、大覚寺、天龍寺、妙心寺、鹿王院ろくおういんなど、嵐山の歴史を触れ歩いた。仁和寺にんなじにも行きたかったのだが少し離れすぎていたので次回の散策で。

嵐山に住んで18年。今回僕は初めて夏の嵐山を真剣に散策した気がする。春夏秋冬で違う顔を見せるそれらを想うと、春、秋、冬とあと3回ほど楽しめることに心がワクワクしていた。


そんな嵐山巡りもあっという間に過ぎる。楽しいことは時間が短く感じると言うが、まさに今日はそんな一日となった。


帰りはいつものような路線バスではなく、美沙の希望で路面電車に乗った。間隔の狭い駅と駅。民家がのきを連ねる生活感溢れる車道。バスよりもゆったりと揺れる車内。今日の余韻を楽しむ最高の帰り道だった。

京都駅から宇治に向かう道中、JR奈良線のみやこ路快速の車内。外はもう既に暗闇に包まれていた。何気なく天井から垂れる中吊り広告を眺めていた僕の左肩に、美沙の頭がコトリと乗ってくる。視線を落とすと、目を瞑りコクリコクリと揺れ動く美沙の横顔が視界に入った。


(まるで仔猫こねこのよう、だな)


僕は優しさ満点の微笑みで彼女を想いやるも、さすがにその心の呟きに返事はなかった。


(帰ってオムライスでも作ってやるか。材料もあるし。水曜日だし――)


JR宇治駅まであと10分。

彼女の匂いと温もりとかすかな息遣いを左耳に感じながら、僕は窓の中で生きる二人の姿に微笑みを向けた。



(お前らって、ほんっと幸せだよな)

(羨ましいよ…… ほんと……)




※※※※※※※※ ※※※※※※※※



「もうすぐ夏休みも終わっちゃうねー」

美沙の声が和室の天井に柔らかく馴染なじむ。


「うん、そうだな。無事に美沙の宿題も終わったことだし。あと一週間で学校も始まるし。あ、そう言えば入学手続き、ちゃんとしてくれてるのかなぁー」


「まぁ、週末に帰ってくるみたいだし、直接聞いてみればー?」


「そうだな」



時刻は夜の10時半を回ろうとしていた。

付けっ放しのテレビからは男性キャスターの低い声が今日の出来事を伝えてくる。和室に二つ敷き並べられた布団に寝転がる。もうすぐやってくる夏の終わりに想いを馳せながら天井からのびる電灯を眺めていた。美沙も隣で同じく。涼子さんがいない日は、いつの間にかこうやって二人並んで寝るようになっていた。



「きっとね、

――いっくんに旅して欲しかったんだよ」


前後の文脈が切り取られた言葉がいきなり僕の思考に飛び込んできた。僕は「ん?」という声と共に視線を美沙に移すと、天井をボンヤリと眺めたままの姿で更に言葉を続けた。


「遅くなっちゃったけど、あの時の答えね。

そんな気がするの。いっくんへの愛情の色」


――あの時


美沙の言葉が何を指しているのか、僕にはすぐにわかった。コンテスト後の屋上でのやり取りが蘇る。

あの日、あの時、あの場所で、旅の終わりの予感と共に美沙に尋ねた僕の言葉。


――僕がこの世界にやってきた意味。


きっと美沙は気づいている、と感じながら。



「愛情……かぁ…

誰の愛情なんだろな……」


「そりゃー、いっくんのことが大好きな人でしょ。まぁ、誰かまではわかんにゃいけどねー」


「おっ、もしかして美沙だったりして」


有りもしない妄想から出た冗談めいた一言に、自分でも苦笑ってしまうも、


「――かもしれないねっ」


と、美沙は可能性を捨てなかった。



僕が過去に旅に出た理由。

この世界に来た意味。

そして、この旅の終着点。


もしもそれが僕にとって必然な出来事であるならば。僕はその全てを受入れて進まなければいけない。どう足掻あがいても抗ってみても僕の力ではどうしようもできないのだから。泣きながらでも前を向いて歩くしかないのだろう。


たとえそうであったとしても。


そう冷静に割り切れてしまう左脳に、割り切れない僕の右脳が抗い続けていた。



「なぁ美沙、」


「んー?」


「最近さ、この旅の終わりをよく想像しちゃうんだ。おっかしいでしょ――」と鼻で微笑む。


美沙は静かに頷き、続きを促す。


「前触れもなくある日突然やってくるのかなー、とか。まるで全部が夢だったように朝起きたらいきなり元の世界に戻っているのかな、とか。

それか美沙のあの珈琲飲んで帰ってしまうのかな、とか。ずっとこのまま美沙と一緒に暮らして、結婚して、子供ができて。お爺ちゃんになって。この世界で幸せに終わるのかな、とか――」



「いっくんはさ、どんな旅だったら納得できる?」



美沙の納得という言葉に喉が詰まった。

たとえ何か一つに納得できたとしても、大なり小なり納得できない部分はきっとあるだろう。全てにおいて納得できる結末は訪れない。そう僕の直感が叫んでいた。


それであっても、僕の納得の内容を最大限尊重するのであれば。きっと答えはこれしかなかった。

僕は暫しの沈黙の後、続きを美沙に向けた。



「これから先、みんなに幸せが訪れる旅になったら納得できる気がするよ。美沙も、母さんも、じいちゃんも、ばあちゃんも、涼子さんも。出会った人たちみんなが幸せになるなら。僕はその旅を選ぶ、かな」


「いっくんも!ねっ」

と美沙が欲張った。


そんな美沙の笑顔に、僕は本音を向けた。


「怖いんだ…… 旅が終わってしまうのが。

未来に帰るのが――」


美沙は僕が言わんとする事を既に感じているのかもしれない。優しい微笑みを向けてくれた。


「どんな未来を迎えたとしても。ここはいっくんにとっては現実の世界よ。だって、刻まれたでしょ?ちゃんとここに――」

笑顔でそう言って胸のあたりを指差した。

そう、心――



「なぁ美沙、ちゃんと教えてほしい。知っときたいんだ。僕の旅の終わりを。自分の未来を」


せめて――


「サヨナラは、ちゃんと言いたいんだ」



『一緒に来てほしい』

その本音の一言が僕には言えなかった。

この世界には美沙が大切に想う人たちがいる。

僕のちっぽけなわがままで別れさせることを想像すると僕の心は耐えきれなかった。納得できる結末じゃない。そう言って心が否定した。



たぶん、僕らはずっと繋がっている。

これからも、ずっと。どんな形であっても――


あの日そう思った僕の直感が、唯一、今の僕を支えていた。



「――8月31日。夏休み最後の日」


美沙はとても柔らかく、僕の旅立ちの日を告げた。


「そっか…… やっぱな……」

「夏の終わりとともに… かぁ…… 」

「あと一週間…… 」



未来を知ったらどんな気分になるんだろうか。


僕は目を瞑り、以前、母の運命を伝えるかどうかで迷っていた自分を重ねてみる。

未来に帰ってしまう自分。

それはまるで誰かが書いた小説の主人公のような、どこか他人事のような自分だった。



(こんな気分になっちゃうんだ、な……)



静かに向き合う僕の心に、

美沙の想いが優しく重なってきた。



「それでもね、サヨナラじゃないと思うよ。

きっといつの日かまた会える。そう思うの」


だから――


「行ってらっしゃい!だね」

と明るく言い切る。


「じゃあ僕は、行ってきます、だな」

とつられて微笑んだ。



今日の彼女は美しい。

まるで嵐山の旅で出会った一筋の陽の光のようだ。いつも以上に僕の心を落ち着かせてくれる。勇気付けてくれる。照らしてくれる。優しい波で包んでくれる。



「2020年に帰ったらさ、どうなってるのかなー?」


「さぁーわかんない。わかんないけど、」


――それも捉え方次第でしょ?


「コンテストでいっくんが言った通り。こっちで経験したことは、いっくんの中に残り続けるの。そして一生の財産になるの」


美沙は明るく続ける。


「またそっから旅が始まる!って思ったら、楽しいじゃん!」


それに――


「どうせまた会えるんだから」



(そうだな。美沙がそう言うなら、きっとそうなるんだろうな)



美沙と出会って1ヶ月。そう、たったの1ヶ月。

もっともっと長く一緒にいるような気がしてならない。そして、これからもずっと一緒に――



「2020年って、美沙っていくつだっけ?」


「えっとー、44歳! ははっ、もうすっかりオバちゃんだねっ」


「おっ、計算ハヤ!しかも正解!」


「ふふっ、誰かさんの夏の特訓のおかげねー」



(夏の特訓のおかげ、かぁ――)



「なぁー」


「んー?」


「……いや、何でもない」



僕がこの世界から旅立つまであと一週間。

いまだ割り切れない僕の右脳が静かに佇む左脳を見つめながら、もう直ぐやってくるであろうその瞬間を感じていた。




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