第34話 僕らの道。
スイーツコンテストが終わり早2日が過ぎた。
今日は2人の休日。8月24日の水曜日である。アルバイトのためにほぼ毎日5時過ぎに起床しているせいか、休日と言えどやはり同じ時間に目が覚めてしまう。習慣とは恐ろしいものだ。朝が苦手だった元の世界の自分からは考えられない程の健康的で規則正しい生活に驚くばかりである。
未だ夢の中で安らぐ美沙を起こさないようにと、そーっとキッチンへ向かい朝食の準備を始めようとした時、食器棚のサイドフックに掛かる濃緑のエプロンが目にとまる。胸には丸っこい珈琲カップの絵と、楽しそうに跳ねる「旅」という文字。美沙が3日前のコンテストで着用していたものだ。
「旅…… かぁ」
僕はそれを何気なく身につけ、バスガイドのような右手のフリで、にこやかに呟いてみる。
「旅する喫茶店へようこそ!」
3日前に使用した道具たちは、まだ梱包用ダンボールの中で眠ったままだ。
僕は、その中にあった小さな金網ザルと、角がペコリと凹んだ銅製の茶筒に入った生豆、そしてハンドル付きの手動式ミルと
(同じ道具使ったら、僕にも出来たりして……)
「よし、いっちょ試してみるか!」
とは言えど、知識も経験もほぼゼロに等しく。
あるのはあの日の
軽く水洗いした
あの日の楽しそうに飛び跳ねるような美沙の姿を思い出しながら、豆たちがパチパチパチっと
なんとなく豆の気持ちになって火加減を微調整しながら約10分。それっぽく見える漆黒の艶めく豆が仕上がる。
(――よし、こんなもんかな?)
それから手動式ミルを不器用な手つきで左にゆっくりと回しながら
ふと視線を和室に向けると、未だタオルケットに身を包む美沙の寝顔がこちらを向いていた。
寝ているのか、
それとも、起きているのか――
あの日助けられた目を瞑ったままの美沙の姿を、視線の先にある寝顔に重ねると、自然と笑みが
(今日は久しぶりに、嵐山にでも行ってみよっかな)
「……うーん、そうしよーよぉー」
突然、小さな寝言が和室から漏れ聞こえる。
偶然かそれとも必然か。僕の心の呟きと美沙の寝言がまるで会話でもしているかのように今日も噛み合う。
(まぁ、もう少し寝かしてやっか……)
一人テーブルにつき、自分特製の美沙風珈琲を飲むと、不思議と僕の心は優しい気持ちで満たされていった。
(お、幸せ気分になれる珈琲、もしかして、作れちゃったかも――)
※※※※※※※※ ※※※※※※※※
カランコロン――
「北野さん、こんにちはー」
「お、いっくんいらっしゃい。美沙ちゃんは昨日のバイトぶりだね」
時刻は11時を少し過ぎたあたり。
今朝の突然の思いつきにより、先ずは喫茶北野を訪れた。北野さんに向かい合う位置のカウンター席に二人並んで座る。僕たちと入れ替わるように1組のカップルが会計を済ませて店を後にし、残る客は僕たちだけとなった。
「今日はどうしたの?」
「朝なんとなく嵐山に行きたいなーって思いまして」と僕が答える。
白い
「そうそう。この前の話。コンテストでの君たちの作品、本当はえらい評判だったみたいだよ。僕は絶対に最優秀賞だと思ったんだけどね。
……まぁ色々とごめんね、力になれなくて」
おそらく北野さんは、審査員の真田サンがあの時話してくれた大人な事情に対してのお詫びであろう。
「いえいえ。思いっきり楽しめたから、悔いはありません!」と本心で答えた。
今日の美沙は先程からぽくない様子だ。いつもの美沙感はなりを潜め、静かに頬杖をつき僕たちの会話も
「さ、今日は何にする?」という北野さんの笑顔に促されて、僕は本日のブレンドを選んだ。
「いいの?普通のホットで」
「はい、店の顔と飲み比べてみたくて」
「ん?飲み比べ?」
「実は、今朝自分で珈琲作ってみたんですよ。北野プロの味とどう違うか、比べてみたくなりましてねー」と微笑む。
「あははっ、いっくんも言うようになったねー。
よーしわかった。もう前回のようなミスはしないからな。今日はちゃんとした水のストックもあるしね――」
店内に響く二人の声。
オーダーを決めかねているのか、静かに佇む美沙を見やり「何にするの?」と尋ねる。それでも暫く彼女はカウンター内側の壁にかかるメニュー表を静かに眺めていた。
僕は、今のうちにこの後の行き先を決めようと、カウンターに置かれていた観光マップを手に取った瞬間、「うん、決めた!」という美沙の力強い声が店内に響いた。
「お、美沙ちゃん、ようやく始動だね。で、何にするかい?」と北野さんが微笑みで促す。
「高校卒業したら、わたしここで働く!」
いつもと変わらないボサノヴァのBGMが小さく流れる店内。ちょうど曲の変わり目に差し掛かったのだろうか。
一瞬、二人とも美沙の言葉が飲み込めずに彼女を見つめる。気がつけばBGMは次の曲に移り、アコースティック調のポップな雰囲気が店内に広がっていた。
「ど、どうしちゃったの、急に」
と慌てふためく北野さんの姿が視界に入る。
そうだった。いつも彼女の決断は助走もなく突然やってくる。しかも決定済みの状態で。
いつからだろうか。彼女には未来予想図がなくて、あるのは未来決定図だけであると知ったのは。
『私、珈琲屋さんになる!!』
僕は、あの日力強く放った美沙の未来宣言を思い出していた。彼女はきっとその日から既に走り出していたのだろう。僕を置き去りにしたままで。
(突然に見えるだけ、なんだろうな。きっと……)
「ほんと!?ここで…… 働いてくれるの?」
「大学は行かないってもう決めましたから!」
「ほ、ほんとうに僕の店で?ここで――」
「はい!ここがいいんです」
そう言い切った美沙は、真っ直ぐで力強い視線を北野さんに向け、言葉を続けた。
「北野さん、わたしを拾ってくれますか?」
もう答えは1つしかないだろう。
「ありがとう…… 嬉しいな……」と目を潤ませながらお礼を言う北野さんの姿に僕の心も同調する。柄にもなくちょっぴり目頭が熱くなった。
1994年の世界で、僕はいろんな感謝に触れてきた。
母が祖父に言った「ありがとう」
祖父が僕にくれた「ありがとう」
美沙が涼子さんに贈った「ありがとう」
今日もまた1つ、本気の『ありがとう』という場面が僕の心に刻まれた。
※
「ところで、いっくんは?大学に進学するんだよね?」という北野さんの声が、僕の本心を
「いや、僕は――」
「――和菓子職人の道に進みます」
その質問に無意識に出した自分の将来像。その将来像を自分の耳が捉えて、初めて僕の思考が反応した。
先行く美沙への対抗心とかではなく全くもって本能から漏れ出た感情。自分でも驚きつつそれでも心はやけに落ち着いていた。焦りもなく、嘘をついたつもりもない。『進みたい』ではなく『進みます』というハッキリとした意志。
今まで気がつかなかった自分の本心に、
何かの力に導かれていく運命のような感覚。
それでも僕の本心は納得していた。
「そうなんだ!すっごくいいと思う。うん」
と北野さんが背中を押し、さらに言葉を続ける。
「あ、そうだ。そしたら将来二人で和菓子カフェのお店出したらどうかな?」
「とってもお似合いだし。うん、いいと思うぞ。
僕も是非とも協力しようじゃないか!」
「あと
と半分茶化した
(ん?それって美沙と結婚…… てこと!!?)
まだ想像すらしたこともない遠い遠い未来に少し頬を赤らめながらも美沙の方にヒラリと視線を移すと、ワクワクした笑みを浮かべていた。
(今は自分の将来像で心がいっぱいなんだろうな……)
「なぁ美沙、」
「なぁに?」
「結局さ――、」
「ん?」
「――なに飲むの?」
「あ、忘れてた!」と美沙の声。
北野さんも(やれやれ)といった顔つきで、それでも嬉しそうに注文を待ち受けた。
「じゃあ、いっくんと一緒のやつ!」
「珈琲だぞ。飲めるのか?」と心配を向ける。
「いいの。一緒のやつで!珈琲屋さんが珈琲飲めないって、やっぱオカシイでしょ?」
と調子のいい笑顔。
北野さんに『あまり苦くしないであげてください』というサイン含みの苦笑いを向けると、立てた親指とウインクサインで返してくれた。
美沙のことをしっかりと理解している数少ない同性の一人として、僕はかなりの親近感を抱いていた。
「ところでこの後お二人さんはどこ行くの?」
こちらに背中を向けたまま、
「まだ決めてないんですけどねー」
と、先ほど手にしかけた観光マップに再び視線を落としながら答える。
「じゃあ、あそこ行ってみたら?」
「ん、どこですか?」
「
「そこには誰でも自由につける鐘があってね。
『しあわせの鐘』って言うんだけど、3つのことを願って3回ついたら幸せになれるんだってさっ」
「3つのこと、ですか?」
「そう。1つ目がいま自分が生かされていることへの感謝で、2つ目が自分を取り巻くすべての命への感謝。そして3つ目が、全世界の人々の幸せを祈って、だね」
「じゃあ、そこまで人力車に乗ってこ!」
と、美沙がいきなり参戦してきた。
「ならその
負けじと僕が
「それから
「そしたら僕ももう一つ! ……えっと、うーんと…… そのあと喫茶北野で晩御飯!」
と北野さんが続き、
「メニューは、いっくんのオムライス!」
最後はやっぱり美沙だった。
3つの
楽しそうに。跳ねるように。
「そうだ、3人で行こうよ!ねっ、北野さん。
どうせ今日は暇でしょー!!?」
その少女のような屈託のない笑顔に、常識を
(人力車って2人乗り、なんだけどな……)
(――まぁ、いっか。水曜日だし!)
僕の生まれた街、京都の嵐山。
何故だろう。2020年では全くといっていいほど興味がなかったものたちが、今日はやけに楽しそうに見える。
「北野さん、いっくんは美沙に一票です!」
2人が注文した2つの同じ珈琲。
差し出す笑顔の髭ヅラに、僕は挑発めいたイタズラな笑みを向けた。
夏の終わりを告げるにはまだ早い8月下旬。
今日もまた、僕たちは新たな旅に出かけるのだろう――
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