第23話 千恵子とイックン。

『宇治ことぶき屋』


僕のアルバイト先でもあり、祖父、つまりは母の父が当主である和菓子屋だ。創業は江戸時代後期と聞かされている。その店から平等院表参道を挟んだ真向かいの家が母の実家である。出勤時間徒歩5秒といったところで少し羨ましい。

それはさておき、僕は美沙と共に約束の11時に玄関の呼び鈴を押した。そしてインターホン越しの祖母の声にいざなわれるままに、玄関の扉をカラカラと引き開く。



「おはようございます、城之内でーす」



誰もいない空間に放った美沙の声が元気に響く。その声に反応しながら祖母がすぐに奥から顔を出した。



「いらっしゃい。どうぞ上がってちょうだい」


「お邪魔しまーす!」



左隣で靴を脱いで綺麗に揃えている美沙。『はじめまして』とは思えない彼女の土足力は今日も健在である。一昔前に流行った『KY』と紙一重のような気もするが、それとは明らかに異なる結果をかんがみると、やはり美沙の行動には天性のものを感じる。


物怖ものおじしないその姿に引き連れられる形で僕は玄関を上がる。母が健在であった当時は年に数回は訪れていた場所なのだが、亡くなって以降はすっかり足が遠のき気味になっていた。

勿論、今は昼休憩の場としてほぼ毎日のようにあがっているのではあるが。今更ながら、母の実家と父の関係性を疑い始めてしまう。



(やっぱり不仲だったってこと...なのかな......)



宇治川に面する和室を右手に臨みながら廊下をさらに奥に進んだ突き当たりの部屋がリビングである。そこに入ると、もう既に今日の荷物が整えられており、あとは出発を待つのみであった。



「賢太朗君、おっはよ!」



いきなり背後から飛んできた声に振り向くと母が重たそうに缶ビールの箱を抱えて玄関に運び出そうとするところであった。僕は挨拶もそこそこにその箱をそっと奪い取り、代わりに玄関に向かう。今はいろんな感情を一旦放置させるために、とにかく動きたい気分だった。

こういう時、一番下っ端の僕のポジションはとても有り難い。重いものを運ぶ人足にんそくとしては勿論もちろんのこと、その他の準備仕事や雑務を半強制的に奪うことができる。


今日の会場まではここから徒歩で15分程度かかる。重い荷物は叔父さんたちが軽トラックで運んでくれる予定になっていた。一旦玄関に移動させられた荷物たちをその荷台に積み込み、軽トラックは一足先に出発する。その後を追うように僕たちは徒歩でそこまで向かった。


美沙と見た宇治川花火大会の日。

人の流れを時の流れに見立てて遠くから眺めていた宇治橋を渡り、京阪宇治駅裏の川沿いの土手を川下に歩く。

真上から照りつける夏色の太陽も、川沿いを通り抜ける川風で今日は少し優しさを感じる。流れが穏やかでキラキラと光り輝く川面かわも白鷺しらさぎが歩きながらついばむ。餌でも探しているのだろうか。実に気持ち良さそうだ。


僕は、小さい頃この川沿いを家族三人で散策したことを思い出していた。そう言えば、この景色がとても好きだった気がする。この辺りは観光客もほとんど来ない場所で、生きた音が聞こえてくるのだ。


宇治川を流れるキラキラとした水の音。

遠くから聞こえてくる近所の子供たちの遊び声。

すぐそばを通る電車の足音。

風が揺らす草の葉音。


いろんな色のついたその波は、自然の中に溶け込んでいる人の暮らしのありのままの姿をうつす。自然と人とが共存するこの場所に、僕は子供ながらにしてかれていた。

そんな懐かしい想いにどっぷりと浸っていた僕の耳に、美沙の声が届く。



「あははっ、そうだったんですねー。チー姉ちゃんってそんな子供時代送ってたなんて。かっわいー!」



(やっぱり美沙だな...... まるで本当の姉妹のようだ)と、その楽しそうな会話にふと笑みを漏らす。仲良く並んで歩く母と美沙を横目に見ながら、僕の気持ちは既に角が取れてまぁるくなっていた。



(今日、一緒でよかったかも――)



祖父、祖母、母、美沙、そして僕は少し縦長になりながらそれでも一団となって歩く。ここに父でもいれば、まるで3世代の団欒風景のようだなとふとイメージが脳裏をよぎる。

他愛もない妄想を一人思い浮かべているといつのまにか目的地がすぐそこにあった。

せっせと準備をする叔父たちの姿を確認するとやや小走りに駆け寄りサポートに入った。


今日は思った以上に楽しい会になりそうな予感に溢れていた。



※※※※※※※※ ※※※※※※※※



「イックンもこっち座って食べましょうよ」



忙しく動き回る僕を気遣う言葉を向けてくれたのは母だった。振り向くと缶ビール片手にアウトドア用のパイプ椅子に座る母とその隣に美沙の笑顔。

そう。先程の夢に出て来たシーンを彷彿とさせる風景である。『イックン』と呼ばれたことには多少違和感はあったが、きっと美沙の影響だろうとアッサリと納得する。

僕は食材を乗せた浅めの皿を片手に、母の横の背もたれのない折りたたみ長椅子に腰をかけた。


役割に追われて忙しかったせいなのか、はたまた美沙の勝手なお膳立てが功を奏したのか、気持ちは前日とは比べモノにならないほど落ち着いている。

今を生きている母を、僕の本能が受け入れた証拠なのかもしれない。



「イックンって、美沙チャンの事が好きなんだってね――」



思ってもみない方向からの一撃に、今まさに喉を通過しかけていた烏龍茶が逆流してせ返る。


(よりによって何故そんな話題から......)と思いながらも美沙の顔をにらみつけると、そこにあるのは舌をペロッと出して照れたような作り仕草。少し前の表現を引用すれば『テヘペロ』と言ったところだ。

そんな仕草をした美沙は、一瞬ウインクをしたように見えたあとおもむろに席を外し、ビールを美味しそうに飲む祖父の元にサッと行ってしまった。祖父はいつもの現場の顔とは全く違う優しい笑みを浮かべている。とにかく楽しそうでこっちも嬉しくなる。



「賢太朗をよろしく頼むよ。ああ見えて根はいい奴だからな――」


(ん?じいちゃんには、僕はどう見えてるんだ?)



祖父の声の内容に聞き捨てならぬ気はしたが、至極幸せそうに見えたので、水を差すのは心の中だけに留めておいた。

そんな景色を横目に、僕に向けられた母の声が意識を戻す。



「いとこ同士でも結婚できるのって知ってる?」



まだ先程のファーストショットのダメージを回復中の僕ではあったが「あ、はい、一応は――」と相槌あいづちを打ち、会話の主導権を奪った。



「それはそうと、千恵子さんは結婚考えてないんですか?ほら、昨日のかたとか......」


「あ、確か見られちゃってたわね。勿論、彼と結婚するわよー。もう決めてるの。誰がなんと言おうと――」



揺るぎない母の笑顔。

自分が信じた道を突き進むその強さは、やはり僕が知る母だった。



「もう家族の方には紹介したのですか?」


「それが正式にはまだなのよね。今日がいいチャンスだと思ったんだけどな――」と、母は少し残念そうな表情で口元のビール缶を斜めに倒した。話を聞くに、急な実家の用事で来れなくなったようだった。


「もう決めたことなら早めに言った方がいいですね」と軽く母の気持ちを慮り、さらに質問を投げかける。


「彼氏さんのどこが好きなんですか?」


「うーん、そうね――私の本音をちゃんと受け入れてくれるところかしら。あ、顔は正直タイプじゃないけど」と微笑む。


「本音......かぁ」


「そう、本音。例えば――生き方とか。

私ね、結構自由に飛び回りたいほうだから、鳥籠に閉じ込められるのは嫌だったりするの」



(ここらは全然変わんないなぁー)



「いい彼氏さんですね。今日僕も会って話してみたかったです」


「まぁ、いつかご縁があったらね――」

と微笑みで返してくれた。



それからしばらく僕と母は二人で過ごした。

父との出会いのこと、いまの福岡での生活のこと、仕事のこと、将来の夢のこと、どんな家庭を築きたいかなど、話は尽きなかった。

1994年の母が何を考えて感じて生きていたのか。今こうして改めて知ることができて正直とても嬉しくなった。僕を厳しく育てようとしていた根幹にある温かい想い。その片鱗がまさに目の前にあった。



『一生懸命生きてると何とかなるし、そのうちいいことがあるわよ!』



そう明るく笑い飛ばしていた母の言葉が胸に込み上げ、僕は再び前を向いた。

そう、きっと今このタイミングしかないのだと。



「ちょっと変なこと聞いてもいいですか?」


「ん?何?いいわよ」


「もし自分の命の期限がわかるとしたら――

千恵子さんは...... 知りたいですか?」



静かに流れ続ける宇治川。

所々が白く泡立つも、けっして荒々しいものではない。次々に川上からやってくる水に押し出されるように目の前の水たちは川下へ移動する。まるでそれは命の世代交代のように思えた。

僕の心は不思議と落ち着いてる。今この瞬間を思うと、あの夢のようにもっともっと感情的になってしまうのかと思っていた。こっちの世界に来てから待ち続けていた瞬間。母の口からどんな答えが返ってくるのか、期待と不安が入り混じる。

そして、暫しの沈黙の後、母の明るい声が僕の心を押し流す。



「それじゃあ全然面白くなーい!

早かれ遅かれみんな死んじゃうんだし、例えわかっていたとしても、わかってなかったとしても、最後まで一生懸命生きるの。それが私の生き方、ね」


まだまだ続きが聞きたくて黙って見つめ続ける僕に、さらに言葉が届く。


「でも、一つだけ我儘わがまま言えるとして―― それでもやっぱり、自分の子供よりは先に死にたいわね」


それと――


「何か一つでも残してあげたいかなー」


「何か一つ......」と僕の呟き。


「うん、そう。例えば、自分の力で生きていける強さとか。男の子なら、愛する人を守れる優しさとか、かなぁ。誰になんと言われようとブレない強い心――」


「たぶんイックンのお母さんもおんなじ気持ちだと思うよ。だって母親だもん!私はまだ経験ないけど、それでもなんとなくわかるの。女だからね」




「それでも...... 僕は、生きて欲しいんです......」


「え!?」



気がつけば無意識な一言を母に向けていた。

彼女は刹那驚くも、すぐさまそれが無かったかのように優しい笑みを浮かべ言葉をくれる。



「イックンのお母さんは幸せ者だね。息子にそう思われて。私もイックンのような息子に恵まれたいな」


「僕の母さんは...... 交通事故で6年前に亡くなりました」


「......あ、いや、その.... そうだったんだ... ごめん、なんか思い出させちゃったみたいで......」



沈黙の後に申し訳なさそうに慌てた母の仕草。

僕はその空気感を素早くかき消すようにとびきりの笑顔で一言だけ伝えた。一番伝えたかった想いを。

精一杯の願いを込めて――



「千恵子さんは、絶対に事故で死んじゃダメですよ!車は急に止まれませんから!」


「うん、わかった。ありがとね」


「あ、もし男の子に恵まれたら、よければ僕の名前差し上げます。賢く、ズ太く、朗らかに!で、賢太朗けんたろう。いい名前でしょ?」



この時の僕に向ける母の微笑みは、まるで想い出の中だけの優しい母のようであった。


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