第38話 目覚める本音。
「あらおかえり、賢太朗」
「あ、涼子さん。お久しぶりです。いつ帰ってきたんですかー?」
「ん?ついさっきよ。いとしの美沙ちゃんのカレーの匂いに惹き寄せられちゃったっ」
といつもの笑顔と適当な返し。
「今回はどこ行ってたんです?」
「福岡よー。って言っても田舎の
仕事とはいえ相変わらず自由気ままな放浪生活を送っているようにもみえる。ここ1ヶ月を振り返ってみても家にいたのはほんの数日しかない。
以前に美沙から「月の半分くらいは家にいない」と聞いてはいたものの。ここまで突き抜けると、それが彼女の生き方そのものなんだろうと
それでも。いつも持ち帰る出張先のお土産には申し訳なさが多少
お皿の上で裸にされていた一羽のひよこ饅頭と目があう。何か言いたげにこっちを見つめているような気がした。
(そんな目されちゃ、あとから食えないじゃん…… てか、チロルチョコじゃないんだ)
現在時刻は夜の8時を回ったところだ。
今日は前もって『少し遅くなる』と美沙に伝えていた。僕が和菓子屋巡りの旅から帰宅して玄関を開けると、既に夕食を済ませて仲良く談笑中の親子の姿が視界に飛び込んできた、というわけである。
それにしても、親子二人きりの食卓はかなり久しぶりではないだろうか。僕の記憶を
それはそうと、美沙特製の手作りカレーの美味しそうな香りに僕の腹の虫が一斉に暴れだす。急いで帰宅後のルーティンを済ませて食卓についた。こうやって3人が揃うのも、なんだか久しい光景だ。
「いっくん、今日はどうだったー?」
「うん、ありがとうな。美沙が昨日言ってたことがわかった気がするよ」
自分自身で見て聞いて触れたものから、何を感じてその後どう動くか。それが大切。
きっとそういうことなのだろう。
それから暫し、僕はカレーをつつきながら、目の前の彼女たちは食後の紅茶と哀愁漂うつぶらな瞳のひよこを楽しみながら、今日の出来事などを繰り広げた。
気がつくと、美沙は頬づえをついた姿勢で、ひよことツンツン雑談し始めていた。
「美沙、どした? ひよこちゃん、なんて?」
「んー、ちょっとねー」
美沙の考えることは正直よくわからないことも多い。それでも僕はあまり気にすることなく、明日から祖父のところで最後の作品作りに取り掛かることを告げたちょうどその時、涼子さんが僕に言葉を向けてきた。
「賢太朗、この
涼子さんからの誘いの珍しさにやや戸惑うも、僕は流されるままに二つ返事で返す。
その事について何も言わない美沙の様子からすると既に了承済みか、それとも興味がないのか。
手をヒラヒラと揺らしながら「いってらっしゃーい」と笑顔を添えて、カップに残る紅茶を飲み干した。
(美沙、頭だけ食べるのは、やめたげて……)
※※※※※※
現在時刻は夜の10時になろうとしている。
夜の宇治橋商店街を二人で並んで歩く。我ながらなんとも珍しい組み合わせである。
いまいち彼女に連れ出された意味を
しばらく涼子さんに導かれるままに歩く。
商店街を抜けてそのまま宇治橋を渡りきり、老舗の茶屋を右に折れて川上に足を向けた。
※※※
「じゃあここ、登ろっか」
「宇治神社……」
宇治川の橘島から伸びる
涼子さんは鳥居前で軽く一礼し、街灯が優しく照らす参道をゆっくりと奥に進んで行く。僕もそれに
「本当にそれでいいの? 賢太朗――」
薄暗い足元に注意を向けながら、境内へと続く長くて急な階段をゆっくりと登っていた時だった。
彼女のその声に、僕の直感が一瞬で落ち着きを失いドクンドクンと右往左往し始める。自身の動揺を誤魔化すかのように「――なんのことですか?」と笑顔で装った。
「美沙から聞いたわ。もうすぐ帰るんでしょー?」
階段を登りきったところで少し荒れた呼吸を整えるように立ち止まる。「よっこいしょ、年取るってイヤねー」という彼女の独り言が静けさに溶け込む。夏の余韻が残る生ぬるい風が、階段下から足元を通り抜けていった。
そして再び彼女は続ける。
「あんまり弱いところ見せない子だからねー」
「ん? 美沙、ですか?」
「あったりまえじゃん。他に誰がいるのよ!」
と笑顔で背中をこずく。
「心の中は大雨ね。あの顔は――」
いつも明るく元気で、気が強くて破天荒で暴れん坊で、それでいて甘えたで。
(泣いてる姿……)
たった一度だけ。
連理の枝を前にして見せたあの美しい涙が蘇る。
それでも僕の未来を既に受け入れて、消化して、そして力にして。既にいつものように一人で前を向いて歩き始めているものだとばかり思い込んでいた。
だから僕も納得して、
いや、強がって、蓋をして、
考えないようにして……
その予想外の美沙の姿に、僕の左脳に押さえつけられていた感情たちが少しずつ主張し始めていた。
運命として諦めていた感情。
抗うこともせずに放置していた感情。
そのことから逃げていた感情。
「――ほんとにこのままでいいの?」
彼女の声が、再び僕の心を
まるで、
「そんなわけないでしょ?」とでも言うように。
「自分に嘘はつけないのよ」とでも言うように。
その答えらしきものは、既に僕の中に存在していた。言われなくたってわかってる。
ただ、怖かった。口にするのが怖かったんだ。
もしも望んでもない未来が、僕の目の前にやってきたとしたら――
虚無感に襲われた自分を想像する。立ち直れる姿は到底思い浮かばなかった。
この世界に…… 僕だって……
ずっと、この世界から続く未来を、みんなと一緒に歩んで行きたい……
でも僕の力じゃ、どうすることもできないんだろ?
もう未来は決まってるんだろ?
そうだろ?美沙……
なんで僕は過去なんかにきちゃったんだ?
意味、わかんねぇよ……
気がつけば、出口を失っていた僕の想いが次々と溢れ出していた。今までずっと運命とか、必然とか、そんな都合のいい言葉で押さえつけていたものが、叫びたかった想いが、誰かに気づいて欲しかった本音が、ポロポロと心の中だけで溢れ出す。
「じゃあ聞くけどさ、」
「何かした?行動した?精一杯頑張ったの?」
「――自分が望む未来のために」
それでも言葉が出なかった。
いや、言葉だけじゃない。体すら、心すら。
何かに縛り付けられた感覚。
流されるままに過ごしてきただけなんだ。
「どうせまた会えるから」という美沙の言葉に、ホッとしただけなんだ。
また会えるっていうことに?
いや、そうじゃない。僕の心の逃げ場ができたってことに、だ。きっと。
今の納得の全てを押し付けて安心できる都合のいい場所ができたんだ。
そんな僕の気持ちに構うことなく、涼子さんからの更なる
「しっかりなさい、賢太朗!」
「思い描く未来を手に入れるためにはね、その流れや運命に逆らってまでも、わがままになることだって大事なことなのよ」
「できるかできないかなんて、誰にもわかんないわ。でも、でもね、」
だからこそ――
「何もしなくて後悔するくらいなら、正しく暴れて後悔しなさい!」
「そっちの方が、断然かっこいいよ」
暗闇が広がる夜空を見上げながら、彼女は薄暗い敷地を更に奥へとゆっくりと歩き出した。
「誰だって先が見えないことって不安なんだよ。明るい街中では見えない星でもね、この視線の先には必ずあるの。数万年前の姿が」
そして、本殿の正面で立ち止まり、格子扉の中を見つめる。
「ほら、あそこにも」
「私には感じるの。そこにいるんだって」
(神様……?)
そう言い切った彼女は僕に真っ直ぐな視線を向け、きっとそこにいるであろう神様の目の前で、3度目の想いを放った。
「あなたは本当に納得してるの?」
「もう何も言わずに、何もせずにそのまま帰る気?もっとやりたいことがあるんでしょ? もっと伝えたいことがあるんでしょ? もっと伝えたい人がいるんでしょ? 吐き出したい感情が、本音が、あるんでしょ? もう二度と会えないかもしれないんだよ!」
「だって、美沙はまた会えるって――」
「わかってない。全然わかってない!またそうやって逃げちゃうの?」
「ねぇ賢太朗、どんな未来がやってきても逃げずに受け入れる覚悟。ちゃんとここに持ってる?」
そう言って、僕の心臓を指で
「覚悟……」
「そう、いろんな覚悟」
「想像してみてよ。向こうに帰ってさ、お母さんともう会えなかったら? もう二度と美沙に会えないとしたら? もっとあの時こうしとけば良かったって思わないでいられる? 精一杯生き抜いたって思える?」
「31日で帰ってしまうかどうかなんて私にはわかんないけどさっ。最後くらいは心の優先順位で暴れてもいいじゃない? きっと
薄暗くてよく見えない。
でも声でわかる。
きっと今、優しい笑顔を浮かべている。
――今一番したいことは、何?
涼子さんは優しく僕の心に答えを求めた。
僕の気持ちを既にわかっていたような、どんな結果であっても受け止めてくれそうな、まるで母のような、柔らかい波だった。
僕は、ありったけの感情を込めて、目の前で僕の心にしっかりと向き合ってくれている1994年の母に想いをぶつけた。
涙を流していたことにすら、気づかないままに。
「――じゃあ、そうしなさい。裏技でもなんでも全力を尽くしてみなさい。私は私にできることで精一杯応援してあげるわ」
「きっとそれが、あなたの生き方なのね」
「いいじゃん!ちゃんと人間してるって感じで」
気がつけば夜空には、僅かにかけた黄色い月が恥ずかしそうに顔を出している。
そのほんのりと柔らかな明かりに照らされたニカッと笑った彼女の姿は、まるで美沙のようだった――
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