第37話 美沙劇場。
8月26日の金曜日。朝から小雨が降っていた。
静かに音もなく降り続けるその空気感にやや肌寒さを感じるも、心の中はふんわりとした優しい温度で満たされていた。
今日は珍しく京阪電車に乗り込んだ。
この後の自分の行動を考えるとなにかと都合がいいのだ。僕は一人電車に揺られながら、元の世界ではでは祇園四条と改名されている四条駅を目指す。サラリーマンたちが忙しそうに乗り降りする週末。それを横目に感じながらも僕は今から訪れるであろう出会いに一人期待を膨らましていた。
流れる車窓に見える人々の暮らし。
普段と変わらないその姿たちに、ここ数日、右往左往し続けてきた自分の心を重ねてみる。
8月31日まで今日を入れてあと6日。残りわずかになった1994年の旅。それなのに。
なぜ今日の僕はこんなにも心が穏やかなのだろう。
未来に帰っても美沙と会えると言われたから?
母さんに自分の気持ちを伝えることができたから?
祖父の元で頑張ってこれた充実感から?
いや、それらは確かに一つの要因ではあるけれど、たぶん昨夜の出来事が大きいはず――
そう僕の心が素直に訴えていた。
※※※
昨夜、アパートを飛び出した美沙が帰ってきたのは夜中の11時を回った頃だった。こんなに遅くまでどこで何をしていたのか。それを聞きたくないと言えば嘘になるが、何故かしら聞いたら負けという感情が湧いてしまった僕は、その出来事自体がなかったかのような振る舞いで美沙を静かに迎え入れる。
美沙も出ていった時のような雰囲気は既になく、右手には小さなコンビニ袋を下げていた。
「あ、おかえり」
「いっくんにお土産だよー。一緒にたーべよぉ」
「ん?なになに?」
「アイスクリーム!ユースクリーム!好きさー」
五線譜つきのその笑顔に、僕は精一杯の手作りな笑みで返す。
内心、いつもの美沙感にホッとしていた。
先程まで乱雑に広げられていた菓子土産たちは、今は机の隅っこで綺麗に積み上げられて次の出番を待っている。
「いっくんって、お抹茶が好きでしょー。だからこれね」
そう言ってキッチンテーブルの上に取り出されたカップ入りの抹茶アイスが一つ。何だか本格的な雰囲気が漂っている。「サンキュー」と明るさを
「突然ですがここで、クエスチョンターイム!」
思わず「ん?」と声をあげて美沙を見上げた。
「ジャジャン!いっくんが今まさに食べようとしているその高級抹茶アイス。さてさて、なんて喋っているでしょーか?」
一瞬、夏のお嬢さんの言ってることが全く理解できなかった。今まで考えもしなかったアイスクリームの擬人化。そうする機会がなかったからと言えば、やや無責任かもしれないが。
それでも少し面白そうだからと付き合ってみることにした。美沙は時計の口真似で「チッチッチッ」とマイペースな様子だ。
僕は暫しのシンキングタイムの後――
「わっ、わたしを食べないで!お願い、助けて。
あー、とけちゃうー、とーけーちゃーうー」
と渾身の感情を込めて冗談半分で答えるも、
「冗談は顔だけにしてよね」
静かに瞬殺された。
無論、不正解。美沙基準だけど。
TPOを見事なまでに見誤った気がして、僕は両手を合わせながら「ごめんごめん」と一番始めから仕切り直す。
「えっと、まずは、ありがとう――」
僕が大好きな抹茶のアイスクリームを、
「せーかい!ピンポンピンポンピンポーン!」
(あれ?まだ答えてないんだけど……)
あまりピンもポンもきてない顔で
「そーいうことねっ。アイスクリームの
未だ言葉にできない僕を
「この子たちにね、いっぱいいっぱい詰まってるの。お菓子にも、包装紙にも、箱にも。作った人の想いとか、買った人の気持ちとか、貰った人の感謝とか、時間とか、プライドとか、歴史とか」
「その声、ちゃんと聞かなきゃ」
「雑に扱ったらただの
「――かわいそすぎだよ」
僕の心にその言葉たちが矢のように突き刺さり、
そして見事に撃ち抜いた。
(そっか…… だから半分雰囲気、なんだな……
こりゃ参ったな…… 恥ずかしいや)
この世界でいろんなことに気付かされてきた僕の心に、また一つ大切なことが宿った瞬間である。
「明日もう一回、一つずつちゃんと見てくるよ。
いろんな声、感じてくる。ありがとうな」
そういった僕に、美沙は一度だけニカッと口角を上げた飛びっきりの笑みを向けた後、今度はテーブルに広がる菓子土産たちに視線を落とし言葉を
「さぁあなたたち、ここに整列しなさい。そして、お母さんの口の中に順に飛び込むのよ。絶対にあなたたちを守ってみせるから!」
「ちなみにお父さんは、今仕事でお留守ねっ」
「まずはじゃあー、長男のあんたからだよ。ふーん、いい目してんじゃん。度胸ありそうね――」
僕は目の前で繰り広げられる美沙劇場に
ふと気づくと自然と
(おっそうか、謎が解けた!だから世の中のお母さんって、ふっくらしちゃうんだ――)
ん?――
(あっしまった、マッチャンが…… 半分溶けてる……)
ついつい
「ごめんなー」と言いながらスプーンで
『いぃ――よぉ――』
※※※
有名無名を含めると、
昨夜、美沙の力を借りつつ僕のうる覚えの頼りない記憶を元に有名どころ数店をピックアップしていた。僕は揺れる電車内で、それらが書かれたメモに視線を落とす。
(先ずは井筒さんから、だな――)
今日はこのリストの店に足を運び、その店の味と歴史と人に触れ合う予定にしていた。最後の和菓子作りのヒントに出会うはずだ、と信じて。
僕は、昨日の美沙とのやりとりでリベンジを誓った場面を思い出し、滅多に履かないスニーカーの
現在時刻は11時前。
地下駅仕様の四条で降りて地上に上がると、先程まで降っていた雨もすっかりと
(あっ、傘…… 電車の中に――)
「旅ってやっぱこれだよな。昨日の出会いも笑っちゃうよね。あのお婆ちゃんの笑顔な――、」
こっそり聞くに、予定通りにいかないことへのもどかしさと、それでも偶然にそうなってしまったことを楽しむのが旅の醍醐味だという内容だった。そして、そこでご馳走になったソフトクリームが堪らなく美味しかったと、なんともいい笑顔を浮かべている。
少し歩いて四条大橋の真ん中付近で立ち止まった。
川上から吹き抜ける風が側道の
(気負いすぎ…… なのかもしれないな)
地図を見ながらの旅と、
白地図を埋めながらの旅と。
――今のお前は、どっちの旅がしたい?
一つの頭の中で僕の左脳と右脳が、珍しく冷静に話し合っていた。そして、リストの場所を予定通りに回ること自体を目的にすり替えようとしていた左脳が、ゆったりと流れる周りの景色を見渡しながら一旦立ち止まる。
(だよな…… やっぱ)
僕は昨夜作ったそのリストを、先程偶然にも空いてしまった右手でクシャリと丸めてポッケに入れた。
うん。今日はこんな感じが、ぽいな――
気がつけば、元気を取り戻した陽の光がちょっぴり手持ち
いつの間にか僕の心から姿を消した違和感。今日はそれさえも楽しい旅に出かけてしまったように思えた。
「さ、いっちょ行ってみますかー」
僕の小さな呟きは、あの時の抹茶羊羹のように口の中で優しく
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