第27話 もう一人の母。

スイーツコンテストを明日に控えた土曜日。

僕は今日も元気に『宇治ことぶき屋』で通常運転中である。とは言うものの、午後からはコンテストに持ち込む食材の前仕込みを行っていた。コンテストの持ち時間は60分。どうしてもその時間内で処理しきれない食材は持ち込み可能なルールになっている。例えば、こしあん。水に浸す時間や煮る時間、ましてや裏ごしなどを加味すると到底その時間内で作ることは不可能であった。

祖父から教わった方法で一人黙々と前処理をこなす。流石に今日は祖父も、


「お前らのコンテストだ。全部自分でやりなさい」


と言い残し、他の作業をおこなっていた。自らの結果は自らの力で。祖父の教えがまた一つ増えた。


先日美沙が宣言した将来の夢。

あの力強い言葉と意志をの当たりにしてから、僕は自分自身の将来について考える時間が確実に増えていた。この世界に来るまでは自分の学力で狙える一番賢い大学に入るまでしか頭をよぎることがなかった将来。でも実際にこうやって祖父の元で働いてモノづくりの面白さを知った今、将来の仕事に関して、いや、もっと大きく言えば人生そのものまでも考えるようになっていた。

僕が作った商品を美味しいと言って喜んでくれる人たちを毎日見ていたこともその要因の一つなのだろう。人に喜んでもらいたい。そんな生き方ができる現場がまさにここにあった。



(明日は、審査員たちに喜んでもらいたいな...)



※※※※※※※※ ※※※※※※※※



「賢太朗、終わったらこっちに来なさい」



仕事終わりの直前。使用した器具の洗い物をしていた僕の耳に祖父の言葉が届く。僕は急いで残りの作業を終えて、事務所でデスクワークをしている祖父の元に向かった。



「明日は仕事だから見に行けないが、精一杯楽しみなさい」


「はい、頑張ります」


「それとな――」



と言いつつ、目に前に小さな封筒を一つ差し出した。



「この1ヶ月よく頑張ってくれた。とても助かったよ。うちに来てくれてありがとう」



受け取った封筒の中身をその場で確認すると、何枚かのお札が入っていた。人生初の給料だった。

思い起こせば、あの時はとにかく生きるために必死だった。時給であるとか休みの条件とかあまり深く考えずに飛び込み、そして有難い事に迎え入れてもらえた。だからこそ。そのご恩にと毎日一生懸命頑張ってきた。

普通であればその見返りがこの給料なのだろうが、突如としてやってきた人生初の場面を前に、いろんな想いが込み上げてくる。



(自分で稼いだお金......なのか? 本当にこんなに貰ってもいいんだろうか――)



こんな僕を拾ってくれて今という未来に繋げてくれた事への感謝の方が大きすぎて、逆に僕がお金を払わなきゃいけないんじゃないかなどという気持ちさえ生まれてくる。



「ん?どうした――」


「いや、色々とこの1ヶ月を思い出してしまいまして...... これ、こんなに... 本当に頂いてもよろしいんでしょうか?」


祖父は僕の言葉を「当たり前だ!」と強めの劇で突き飛ばした後、少し落ち着いたトーンで続けた。


「これはお前が頑張った証だ。自己否定だけはするな。お前にはその、いや、それ以上の価値がある。覚えておけ」


「あとな――」


「それで彼女や世話になってる人に何か買ってやれ。気持ちのいい金の使い方がわかるはずだ」


「はい、ありがとうございます」



僕はその祖父の気持ちがただただ嬉しかった。有り難かった。元の世界では正直こんな風に言ってくれる人は一人もいなかった。もし母が生きていたならきっと同じようなことを言ってくれていたはずだとは想像できるも、あの頃の僕はそれを口煩くちうるさい小言くらいとして受け流しているはずである。

一時いっときでも、一人きりで誰も頼れずの辛い状況を経験したことは、僕の感受性を豊かにしてくれていた。素直に心からの感謝が言える自分が今ここにいることに改めて気がついた。

僕は最大限の感謝を込めて、しばらくの間深々と頭を下げた。そして明日に向かって歩き出そうとした時、背後から再び祖父の声が届く。



「――お前にはセンスがある。明日は自信を持っていけ。一番を目指すよりも無二を目指せ。それがワシからのアドバイスだ。貰っとけ」



日頃は無口な祖父。

それでも毎日会話していることを、このコンテスト用の羊羹作りで知った。今こうしてしっかりと評価してくれる祖父もまた、僕の姿と無言の会話を繰り広げることで見てくれていたのだろう。


僕はこの日初めて、人からの評価の意味を肌で感じることができた。祖父の元で働けた幸運に感謝しながら。



※※※※※※※※ ※※※※※※※※



「ただいま――です」



仕事が終わり、いつもより遅い時間に家につくと、涼子さんが夕飯の支度をしている。美沙はまだ仕事から帰宅していないようだ。



「お帰り賢太朗。今日はちょっと遅かったのね」


「あ、はい。少し寄るところがあったんで――」



そう言って僕はいつものように荷物を一旦和室に置き、それからキッチンテーブルにつくや否や、涼子さんの背中に言葉を向けた。


「お母さん、ちょっといいですか?」


この時、初めて涼子さんのことを『お母さん』と呼んだ。その声に少し驚いて振り向いた彼女に、更に言葉を続ける。



「今日、初めての給料日だったんです。で、これ... 御守りです。僕を拾ってくれて本当にありがとうございました」



小さな手さげ袋を渡すと、嬉しそうに微笑みながら「開けてもいい?」と一言。僕は微笑みで意思を返す。



「まだ美沙には内緒なんですが、形違いのネックレスです。親子でつけて欲しくて――」



涼子さんは黙ったまま箱からそれを取り出す。

そのネックレスは、まるで木星を明るくした紋様の小さな宝石【サードオニキス】が小さく中心にデザインされたものである。



「サードオニキス......」



涼子さんはそう呟いた。

この様子からすると、きっと彼女もこの宝石のを知っているのだろう。それでも何も言わずにそれを胸元で光らせて眺めている。そしておもむろに視線をこちら向けて一言呟いた。



「美沙から...... 聞いたのね」


「はい。でも美沙は心からお母さんのことが大好きですから。僕にはわかるんです。きっと彼女なりの愛情表現だと思います。だから――」


「うん、もうそれ以何も上言わなくても大丈夫...... ちゃんと感じているから... 誰がなんと言おうと、過去にどんな事実があろうと――」


「――美沙は、私の愛する娘だもの」

と、優しい笑みを僕にくれた。



「ありがとうね、大切にする!」と言いつつ涼子さんの手は再び夕飯の支度に戻る。小さく胸元を輝かせたままで。


もしかしたら僕のこの行為は、美沙にとっては余計なお世話だったのかもしれない。そうであったとしても。僕は、二人が本当の親子になる日を願わずにはいられなかった――


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