京都嵐山の、旅する喫茶店へようこそ。

結衣こころころころ。

プロローグ ー 旅する喫茶店。


(ん?こんな場所に、こんな店ってあったかな?)


ふとした疑問が頭をよぎる。


たび


一文字の古びた看板。

それ以外は何もかかげられていない。

でも雰囲気は、まるで喫茶店のようだ。



(それにしても不思議だ...)



ここ京都嵐山は、小さい頃からずっと住んでいる地元である。どこに何の店があるのか、この細い路地のさらに奥まで把握しつくしているはずなのに、初めて目にする光景である。


お土産物屋激戦区とは言え、流石さすがに新しくできた店には気がつくはずだ。


しかも、昨日今日にできた真新しさとは真逆のいにしえを感じる店構え。


何気なくガラス窓から中を覗く。

それは、カウンター席しかない、ほぼ喫茶店。

店員は、カウンターの中に一人だけ。

若い女の子。きっと高校生くらいだろう。

長い黒髪を頭の後ろで束ねている。座って小説でも読んでいるのだろうか。

その掌におさまる小さな本に目線を落としたまま微動だにしない。


僕は吸い寄せられるように扉を開け、気がつけば中に入っていた。


入り口で鳴る風鈴ふうりんの音。おそらくチャイム代わりだろう。梅雨の時期特有の湿気をはらんだ外気とは違い、中はカラッとした春の陽気を思わせる空気感。


カウンターの中の店員らしき若い女性は、僕に気がつきニコリと微笑みだけでカウンター席にいざなった。



「どうしてここに?」



一言目が明らかにおかしい。

普通なら、『いらっしゃいませ』なはず。

僕は、彼女が発した言葉の意味がわからないまま、それには答えずに周りを見回した。


明らかに喫茶店である。

外から確認した内装と寸分の狂いもない。

背面の壁面いっぱいの天井までそびえ立つ棚には、単行本が綺麗に整列されている。カウンター側の壁の空いたスペースにはカレンダーが一つかかっている。


一通り店内を確認した僕は、思い出したかのように、先ほどの女の子の質問に質問で返した。



「ここは、何屋さんですか?メニュー表があればください。」



きっと喫茶店。

まずはそう決めつけて、メニュー表を催促する。


すると女の子はカウンターの内側から直ぐにメニュー表を出してくれた。

真紅のスエード調のレトロなブックカバーを開くと、そこにはメニューが3つだけ書かれていた。



くつろぎの味

感動の味

おふくろの味



3つしかないメニュー。しかも飲み物かどうかもわからない。これ以上推測を走らせても、疑問しか残らないと諦め、僕はついに本題を切り出す。



「ここは喫茶店... ですよね?」


「はい、そうですよ」と彼女は微笑む。


「いつ頃からこの店あるんですか?地元だけど全然気がつきませんでしたよ」と苦笑い。


「そうでしょう。今しがたオープンしましたからね」


「ん?それはどういう事ですか?」


僕の頭上に、ハテナマークがいくつも浮かび上がる。それを見た彼女は、その僕の表情が当たり前の反応であるかのように受け流し、さらに一言。



「あなたが来ることは、わかってましたよ」



単純に、もう一つハテナマークが増えてしまった。



『旅』と書かれた看板。

喫茶店のような店構え。

3つしかない何もわからないメニュー。

カウンターで一人店番をする彼女。

そして、先ほどの発言たち。



ここまでわからないことだらけだと、逆に興味が湧いてくる。人の心理とは摩訶不思議まかふしぎだ。


もしかすると、このまま宗教に勧誘されてしまうとか、高いものを買う契約をしてしまうとか、何か深みにはまってしまいそうな予感さえする。


それでも直感で、そんな嫌な気がしない場所だと心が反応していた。



「じゃあ、この『おふくろの味』を一つください」


「わかりました」



彼女は笑顔で告げ、目の前にある生豆を焙煎し始める。



(やっぱり怪しいけど、喫茶店だったんだ!)



芳ばしい香りが店いっぱいに広がり、僕の思考にも一つ疑問が解消されたことによる安堵あんどが広がる。



(ん?懐かしい匂いだ。どこかで...)



焙煎機から取り出した少し湿っぽく輝いた漆黒しっこくの豆をグラインダーですり潰すと、今度は甘い芳醇ほうじゅんな香りに変わる。そして、最後にドリップ。


手際のいい彼女の手つき。

透き通った透明感を帯びた白い肌。

すらっと伸びた細い指。



(なんてキレイな...)



思わず見とれてしまった僕に、そっと注文の品が届く。

若干、不埒ふらちな思考を巡らせていた僕は少しほほを赤らめながら『ありがとう』と、おふくろの味を受け入れる。



(そういえば、あまりにも不思議だったから、メニューの値段も見てなかったような... もしかしてボッタクリ喫茶店だったらどうしよう。お気遣いも今月ピンチだし...)



メニュー表は先ほど彼女へ返したところだ。

手がかりを求め店内を見回しても、壁一面の単行本たちと、壁かかるカレンダーがあるのみだ。


ふとカレンダーの日付が目に入る。



『1994年7月』



(...今からちょうど26年前。僕が生まれる8年前... 何があった年... だろうか )



そんな思考を巡らせながらも結論には程遠い。

そして、僕は彼女がいれた飲み物を口に運んだその瞬間。



「いってらっしゃい」



彼女が発した波と共に、僕の意識はそこで途切れた。



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