ボーンセックシィーイエスタディ


大澤:えっと、今のはなんだったんでしょうか? まあいいか、まあいいね。どうも、はじめまして。はじめまして? まあ、はじめましてかな。今日はなんか、かなりちゃんとガッチリ目にお時間をとって頂いているみたいで、ありがとうございます。ふつつかものですが、よろしくお願いします。


籠原:よろしくお願いします。最近は男友達にオススメされた『ホワイトアルバム2』で遊んでいる籠原です。あとはFGOと将棋観戦と麻雀理論と芸術全般と思想哲学などを嗜んでいます。ワイン空けます(後記――この対談が終わるまでに彼女は瓶を2本飲み干してしまったのである)


大澤:(マジかよという顔)はい。最初は創作メソッドを探求するためにいろいろな小説家の人に話を聞いてみよう! という趣旨ではじまったこの企画なんですが、前回は漫画家の藤のようさん。そして、今回はついにクソツイッタラーの籠原スナヲさんと、すでに迷走している感じがアリアリアリアリアリーヴェデルチ(さよならだ)ですけれど、やっていきましょう。

 スナヲさんはかつてわたしがクソツイッタラーだった時代に(今はクソツイッタラーでないとは言っていない)青い人とあわせて三人で「勝手にしろ三姉妹」とか呼ばれてわりとクソツイッタラーとして並べられることが多かったんですけれども、実はちゃんと議論をしたことってたぶん一度もないんですよね。わりと根本的なところでは論旨が対立しないもので。はぁ、青いのは今頃どこでなにをしているんでしょうか。同じ空を見上げているのかな。


籠原:青識亜論さんはこの前こんなことを言っていました。

「ヴォル子さんのモデルは私なので、フェミニストがなんと言おうと、私が同意すればいかなる凌辱的表象の対象にしても許されるので、みなさん使ってやってください(笑)」

 おそらくまなざし村の村人を挑発する意図でしょうけれど、言質は言質なので今度の小説でメチャクチャにしてやろうと思っていますね。もちろん愛ですよ愛。


大澤:あはは、勝手にして(原点回帰)。で、今回の対談なんですけれども、ツイのほうのタイムラインで「ボーンセクシーイエスタディ」という動画が出回っていたことがあって、それに対してなんぞかんぞと言っていたらこれはどうやら珍しくわたしとスナヲさんの意見が対立しているようだぞ? となって、じゃあいっちょ対談でもしてみますかみたいなそういう感じで今です。(?)

 動画のほうはまだYoutubeにあるので、そちらで「Born Sexy Yesterday」で検索してもらえると見つかるかなと思います。ざっと言うと、古今の映画作品をボーンセクシーイエスタディという共通の切り口から見ていきましょうねみたいな、フェミニズムてき映画評論みたいなやつですね。今日はまずこの動画をベースに話を進めていきますので、先に見ておいてもらったほうが理解が早いかもしれません。海外の動画ですが設定で日本語字幕も出ますので安心です。

 じゃあ、もうみなさんは動画を視聴済みであるという前提で続きをやっていきますけれども、わたしはたとえばあの動画の結論である「だから家父長制の解体、これじゃよ」みたいなのには甚だ賛同できなくて、創作にまでそんなイデオロギー持ちこんでくんじゃねーよバーカって感じなんですけれど、でも、既存のステロタイプだとかフォーミュラの中に、そういう欲望が隠されていますよっていう指摘じたいはいいと思うんですよね。そこはほら、創作が古いフォーマットを刷新していくうえで、支点になりうる部分なので。


籠原:うーん、そうですね。私も個人的には文学理論と政治理論をストレートに接続することは可能ではないし、また望ましくもないだろうと感じます。他方で大澤さんの仰る通り、件の動画に見られるようなカテゴライズが結果として創作に役立つ場面もあるだろうとは思います。


大澤:ストーリーラインだけを追えば、一見バラバラのように思える物語群が、ある特定の視座に立つと共通項でくくることができる。こういう気付きが創作において”火種”(ダブルピースをにぎにぎするジェスチャー)になることは大いにあると思うので、そういう分析的な見方そのものが感性として貧しいとは言えないですよね。ただ、あの動画は後半にいくにつれてもう思いっきり白けちゃいますけれど。


籠原:私は件の動画を鑑賞しながら、まるで宇野ナントカだなと思いました。宇野ナントカもまた色々な造語でジャンルを横断しようとする批評家でしたが、最終的に彼が提示した主張には全然ノれませんでした。今回の動画もそうですが。私は「対等な人間関係を目指そう!」というポリコレ的スローガンにはものすごく懐疑的なんですよね。


大澤:うーん、わたしはまあ「こういうところに作者の女性蔑視が透けてやーだねー」みたいな話は分からないことはないのですが、わたしも本読んだり映画見たりしながら、そういう気分になることよくあるので。でもそういうのって物語てきな面白さとは無関係ですからね。「そういうのはもう時代遅れ! これからはこういう話を書きましょう!」みたいなことを言われても「うるせー!自分で書けー!」としか思いませんよ。散々偉そうに講釈垂れておいて、なに急に甘えたこと言ってんですかっていう。


籠原:とはいえ、それは批評家全体に対して言えることですよね(笑)別に私は批評家が実作者である必要はないと思います。なまじ小説を書かないからこそ分かることあるのでしょう。それはたとえばソフトウェアテストにおいて開発チームとテストチームが分けられているようなものかもしれません。


大澤:や、別に批評家が実作者であるべきとか言っているわけではないんですけれども。逆に、批評家がなんらかの面で実作者であったとしても、それで当該の批評のなにかが免責されるわけではありませんし。たんに「こういう風に分析できますね」って話ならどうでもいいのに、何者でも外野さんが「こういう話を書こう!」とか余計なことを言うから癪に障るんですよね。別に実作者でなくても、それなりのお金を払えば作者に好きなように話を書かせることもできるんですから、口出ししたいなら相応のものを出せばいいのです。


籠原:批評家は「何者ではない」存在では決してなく、まさに「批評家である」存在なので、そこで腹を立てても仕方がないと思います。それはパトロンとして自分の好きな作品を実作者に創造させるのとはケースが違います。『源氏物語』を単なるポルノから「もののあはれを描いた古典的名作」に格上げして称揚した本居宣長に対しては、誰も文句がないでしょう。直接に金銭が絡めばいいというわけではないと思います。まさに、テストチームは開発チームに直接お金を払うわけではないからこそ言いたいことが言えるのでしょうから。


大澤:ん~? いまなにかをスライドされちゃった気配がなくもないんですけれど、まあ今回はいいでしょう。今日は別に論争をしようとしているわけじゃないですからね。レッツ伸び伸び。


籠原:私は大澤さんの「政治的な正しさは物語の面白さとは無関係」という点は同意見なのですけれど、件の動画の「女性蔑視」云々みたいな部分は正直よく分かりませんでしたね。ボーンセクシーイエスタデイの逆バージョンだって探せばわりとたくさんありそうじゃないですか。男の子の欲望ばかり責めるのは可哀想だと感じちゃいますね(笑)


大澤:ボーンセクシーイエスタディの逆パターンはそれはもう枚挙にいとまがないという感じで、最近でもほら『私の少年』とかありますよね。なので「男性を糾弾するため」という目的設定では、あれはそもそも最初から筋が悪いんですよ。


籠原:私は自分自身にショタコン趣味がないことも関係しているのか、高野ひと深『私の少年』という作品に対して妙な苦手意識があるんですよね。『とっても優しいあまえちゃん!』のほうが楽しく読めるところがあります。『あまえちゃん!』はロリコンの物語であることに何の言い訳もないけれど、『私の少年』はそれに関してものすごくアリバイや口実を用意しようとする。「私はただのショタコンではありません」と誤魔化しているようでむかつく。変態女のくせに、ね。とはいえ、こんな風に読者の心をザワザワさせる時点で優れた作品だとも思いますけど。


大澤:創作論てきな話をすると、そのへんのリアリティレベルの設定というのはモロに作者の技量が出るところで、けっこうみんな悩んでいると思うんです。『あまえちゃん!』はコメディというか、もう純然たるファンタジーとして描いているので、一般的な倫理観とか道徳を平然とちぎれるから、むしろ安心して見ていられるという話は分かる気がします。「気持ち悪いのは分かってるけどそんなことより俺は癒されたいんだ!」みたいな素直さっていうか、ちゃんと自覚がある感じで、まあわたしはけっこう真顔になっちゃうんですけれども、別にええかみたいな気持ちにはなりますよね。


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