完全に対等な関係は望ましくない?


大澤:えっと、ツイのほうでもスナヲさん仰っていたんですけれども、完全に対等な関係なんかあり得ないっていう立場でしたよね。わたしはそこ、やっぱちょっと違っていて。もちろんそこには解像度の問題っていうのはあって、それぞれ別の人間なわけですから無限に拡大していけば完全に対等な関係はないっていうのは真なんですけれども、でもそれ真だとしても意味のない話じゃないですか。まあこれくらいなら二者間の関係性として対等って言ってもいいかもな? みたいな妥当なラインっていうのはあると思いますよ。そりゃあ、それぞれに個別でプライベートなものですから、一概にこうだったらダメとか言えるものではないですけれども。


籠原:私は「完全に対等な人間関係は可能ではない」と主張しているだけではなく、そもそも完全に対等な人間関係など望ましくないとも主張していますね。たしかにあるていど対等に見える人間関係は構築できるかもしれませんが、いずれにせよ両者の力関係には何らかの勾配が存在しているほうがいい。意思決定の段階で主導権が分散している組織などナンセンスだからです。それがカカア天下であれ亭主関白であれ片方がリーダになるほうがいい。つまり大澤さんと私は事実判断のレベルのみならず価値判断のレベルにおいても対立していたわけです。


大澤:うーんスナヲさんが言うことは、三者以上の組織の運営という点では真だと思いますが、プライベートな二者間の関係性というのはまた特別なものですよ。無批判に三者以上の組織に適用される組織論を導入していいものではないと思います。二者間の関係性において場面ごとの主導権の転換が起こらないのであれば、わたしはわりと「危険水準」だと見做しますね。カカア天下であれ亭主関白であれ適切に回っている場合は、場面ごとに主導権の転換は自然と起こっているものですよ。


籠原:二者間の組織と三者間の組織を区別する必要性をあまり感じません。そもそも夫婦といえども子供を産んだ時点でもはや二者間ではないし、そうでなくても互いの親戚との関係を考えれば事態は単純ではない。そしてそうした多種多様な関係性の中では立場の反転は簡単に起こりうるでしょうし、仮に起こらなくても、当人同士がそれで満足しているなら問題と呼ぶには値しないと思います。私の両親はいかなる場面でも母が強いのですが、それで父が病むというのは正直想像つかない。


大澤:いままた、あるていど一致した目的を持つ組織運営に関する話と、たんなる多数の人間の関係性の話とでスライドが発生した気配があるのですけれど、まあここは完全にドグマの対立なので、わりと無駄な気配がありますね。ただ、わたしとしては、二者間であれ三者以上の組織であれ、権力を持つ側、あるいは持ちやすい側に自覚や客観視は必要だと思うし、適切な自制はあるべきだと思います。


籠原:もちろん――人間関係の維持においては、或る種の自覚と自制が必要なのは自明の理かもしれませんが、しかし私たちの理性と知性は平等に与えられているわけではありません。ルール化を進める過程においても片方が主導的になる必要はあるのです。たとえばSMプレイには「セーフワード」なるものが存在していますが、そうしたルール化はプレイに精通した者がコントロールする必要がある。それが男か女かは問いません。私は「フルートのソロパートに相応しいのは『いちばんやる気のある者』ではなく『いちばん演奏の上手い者』だ」という言葉を思い出しますね。何であれ私たちには自分自身の資質に見合った役割というものがあるし、円滑な人間関係においても多分それは例外ではないでしょう。


大澤:わたしももちろん、組織における役割分担といったことまで否定するつもりはないのですが。その例でいえば、指揮者とフルート奏者の間には組織としての指揮系統は存在しますけれども、別にフルート奏者は指揮者に依存しているわけではありませんし、フルート奏者はフルート奏者で自立した個人であり得るわけじゃないですか。変に比喩を交えると本質を見失う気がします。組織の中で偉い人が自立した人間というわけでもないでしょう。うちにも赤ちゃんみたいな上司いますし。わたしは人間の自立の話をしたいのであって、組織内での役割の話をしたいのではないのです。


籠原:ああ、なるほどですね……。私は今までこの話題を「組織における主導権」の問題だと考えていました。それは合奏団の構成員が自立した個人であることと矛盾しないのです。嫌なら組織を辞めればいいだけだからです。嫌なら離婚すればいいのと同じことですね。精神的に自立している/自立していないという問題と、組織内で服従的立場なのか支配的立場なのかは、全く無関係ではないにしろ基本的に別問題です。すべてS女に支配されているけれど精神的に自立しているM男くんなんて簡単に想像できそうなものです。また結局のところ精神的自立の問題は「当人が頑張るしかない話」で、。周囲の環境はあまり関係ありません。


大澤:そうですね。これよく男女間の対立に回収されてしまうんですけれども、わたしはそれもなんか違うなーって思っていて、自立っていうのはほんと「当人が頑張るしかない」んですよ。最初のボーンセクシーイエスタディの話にピンとこないのもたぶんそこで、支配的な側に要請するばっかりの話じゃないですよね。ああでも、自立していない人に依存されることに対して危機感がない人っていうのも危ないですよね。よりどちらのほうが破壊的かと言えば、自立していない人のほうですから。そもそも、自立していない人に依存されることに対して危機感がないっていうのも、自立していないからかな。依存的な関係性って大抵は少なからず共依存てきですからね。そして、自立していない人って責任感とかないですから、それはもう破壊的です。いい迷惑。距離をとっちゃう。


籠原:そうですね。それも含めて結局のところ当人の頑張り次第なので。個人的には「当人が頑張っていないならそれは見捨てるしかないですよね」というのが今のところ結論ですね。


大澤:あ~、分かる。わたしも最近もうね、見捨てるしかないなっていう結論になってきました……。



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