うさぎドロップ問題


大澤:リアリティレベルの調整っていう話だと、わたしが「うさぎドロップ問題」って呼んでいるサムシングがあるんですけれども、あれのラストはそういう部分をファンタジーとしてじゃなくて、無自覚にナチュラルにいい話みたいに出してきている気配があって、寒気が走ったっていうのがあります。気持ち悪いものを気持ち悪いものとして素直に出してくるぶんにはいいんですけれど、いい話みたいなパッケージで出してこられるとほら、怖いじゃないですか。


籠原:私、以前「うさぎドロップ問題」を擁護したことがあるんですよ。今からツイートを引用しますね。


>「原作最終回を読む限り、TVアニメ『うさぎドロップ』は反復の物語だと言える。たとえば河地大吉は祖父・鹿賀宋一を反復している。彼はたびたび祖父に似ていることを指摘されるわけだ。他方で鹿賀りんは母親・吉井正子を反復している。それは彼女の面影や絵の上手さにおいて表されている。」

>「だから『うさぎドロップ』の最終回は、大吉とりんが宗一と正子の関係を反復するような形で描かれている。あるいはそれは不自然なことかもしれない。しかし不自然な家族関係こそりんの来歴に根ざすものであり、彼女は(そして大吉もまた)生き続ける限りそれを否定するわけにはいかないのだ」

>「もしも誰かが『うさぎドロップの最終回は常識的にありえない、前半が好きなだけに後半の展開は残念だ』と言うなら私は悲しい。その『常識的ありえなさ』を非難するということは、鹿賀りんという命が生まれた奇妙な人間関係をも非難するということだ。前半が好きなら後半も否定できないのだ」


籠原:しかし引用してから感じたのですが、ここまで『うさぎドロップ』を擁護するなら当然『私の少年』も肯定できるはずで、それを怠っているのは単に私にショタコン趣味がないからだよなと感じていますね。


大澤:わらう。「彼女は生き続ける限りそれを否定するわけにはいかない」については大いに異議があるんですけれども、そこはわたしはいちおう既に作品でアンサーしているので、特にそれ以上は言うことないですね。『6番線に春は来る、そして今日、君はいなくなる。』の4章『春と聞かねば知らでありしを』っていうのがソレで、自覚的に反復を断ち切る物語。


籠原:現状の反復強迫を無理やり断絶することで新たな世界に到達しようぜ、というような感覚はあまり私の中には存在していないのかもしれませんね。人間は結局のところ自分のなかにある何ごとかを反復するしかないけれど、その反復こそが我々に新しい何かをもたらすのではないかと感じています。トラウマ治療においてもその記憶を疑似的に再現すると言われていますね。『スカイ・クロラ』的な「無意味なループを繰り返すことは無意味ではない」というような世界観を私は信じているのかも……。


大澤:その『スカイ・クロラ』は、もしや映画版の話をされています?  シリーズを最後まで通すとそういうテーマ性ではない気がしますが。


籠原:はい、映画版です。映画版のほうが個人的には好きなんですよ。


大澤:いいか、映画版のことは忘れろ。お前は、なにも見なかった。


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