小説を書くのって喜びが少なく苦痛ばかりが大きい作業じゃないですか?


isako:「何か世の中に言いたいことがあって小説を書く」みたいな話は小説にまつわる幻想としてよくあると思うんですけど、わりと書く側って書くのが楽しいとか、小説でドリーム掴みたいとかそういう卑近な理由が多いと思うんです。大澤先生は「自分が小説を完成させるところを見せてやろうとした」みたいな話があったと思うんですけど、今に至って書く理由ってどうですか?


大澤:うーん、もちろん欲望としては「すごい小説を書いて褒められたい」なんですけど、基本的に小説を書くのって喜びが少なく苦痛ばかりが大きい作業じゃないですか? その大半の苦痛の中でひとつ面白さとしてあるのは「自分がなにを考えていたのか自分で分かる」みたいなところですかね? 物語って、シミュレーションの側面もあるので、こういったシチェーションの追い込まれたときに、自分からこういう言葉がでてきた。そういう自分でも予期しなかった反応みたいなのが見れると、すこしは楽しいですね。


isako:シミュレーション! 面白い! 小説のなかで自分がどんな人間なのかを見つけ直すんだ……書くことを自分のために捉えると、そういうことも言えるようになりますね。自分の中から出てきた世界で、自分がどんな人間なのかを試されるわけですから、当然小説での出来がそのひとの人格を表しているようにも見えてしまう。100%の精度ではないしても少なからず物語は書き手の心の在り方を覗くことができる窓になるわけで……。


大澤:でも、やればやるほど、自分が小説を書くのはそんなに好きではないということを自覚します。ああ、書かなきゃなあって思うときの心の動きって「ああ、歯を磨かなきゃなぁ」とか「お風呂はいらなきゃなぁ」にちかい。


isako:書くことが義務的になるのはすごく実感あります。筋トレみたいな感じになっていきますよね。今日は何千字書いたぞ!みたいな。初期の熱量を失っても続くのはある意味才能なのかもしれない。


大澤:なんでも惰性が一番つよいですからね。情熱は情熱を失ったら終わりですけど、惰性に終わりはないから。これもよく言ってるんですけど、惰性だろうと手癖だろうと、少なくとも200万文字くらいまでは、書いたら書いただけ上手くなるという右肩あがりの正比例で推移すると思います。なにが? って言われると難しいんですが。筆力? てきな?


isako:継続は力なりとか言うと月並みだけど、文章を書く筋肉みたいなものの存在は感じます。タイプする腕の筋肉じゃなくて、脳の奥で回り続ける血と肉のエンジンみたいなもので、書けば書くほど馬力は上がっていく。惰性……維持は難しい。


大澤:難しいですよね。だから、ダラけられる緩いコミュニティって重要なんですよ。ありもしなかった青春のノスタルジーてき文芸部の部室みたいなところ。


isako:そういうコミュニティ、10代の頃にあったらよかったのにって思いますよね。たぶんそういうのに憧れて、おれは今更になってツイッターで繋がりを求めてるのかもしれません。


大澤:ぼくたちはずっと10代の頃に得られなかったなにかを今さら取り戻そうと終わらない文化祭をやってるんですよ。たぶん未練がないととても小説なんて書いてられない。


isako:未練あるんでしょうね。青春に。でも10代のころは、そういうのクソだと思ってたんですよね。今でもその気持ちは忘れてはない、と言いたいけど、だれたつながりって結構こころを助けることもあるわけで……。


大澤:10代の頃はなぐさめなんていらないって思っちゃうから。でもなぐさめもなく生きていけるほど人間は強くないので。もう大人ですから、今さら自分の感じている寂しさとかに蓋をすると、創作にもよくない。蓋を全部剥がして奥深くまで潜水しないと。


isako:自分の負のものに向き合うのは大切かもしれませんね。吐き出す文章の熱が変わってくる。


大澤:負を負のままで終わらせずになんらか開けていくような物語がわたしは好きですけど。そういう意味では『人間のあなたは〜』はよかったですね。ドロドロとした嫌な感じと爽やかさが同居してて。『HALLOWE’EN ; the fright night』とかは直球の負の感情がそのまま真っ直ぐって感じなので、やっぱり展開とか転回がほしくなっちゃう。



※『HALLOWE’EN ; the fright night』 - ハロウィンの渋谷で34人を殺害したシリアルキラー西田摩遊の足跡を感情を抑えた文体で淡々と記述する架空のルポタージュ。


https://kakuyomu.jp/works/16816700427124708150



isako:バッドエンドって、とても現実的な結末であるだけに、読者サイドからでも容易に想像がつく終わり方ではちょっと足りないのかも。短編はバッドにしちゃいがちなんですよね。あれはほんとに書くのが楽しくて……。


大澤:バッドがだめってこともないんだけど、あらすじ書いたときに接続詞が「そして」ばっかりだと飽きちゃいますね。「ところが」とか「かと思いきや」みたいなのがないと。短編はオチから考えますか? それとも手前から順番に書いていきます?


isako:頭から書いてますね。終わる頃まで終りはわからないです。『HALLOWE’EN〜』だけはオチを想定しながら書いてましたね。大澤先生はどうですか? 先にオチ決めますか?


大澤:短編はわりとオチありきで書きますね。長編の場合は脳のキャパを超えちゃうから、書きながら主人公と共に歩んでいく感じになりますけど。


isako:テーマとか設定の着想ってどうですか?降りてくるの待ちますか?それとも戦略的に?


大澤:なにを作品のテーマと呼ぶかみたいな本源的な議論もあると思うんですけど、本質的な部分ではデビュー作からほぼ一貫してて、慣れない教室でガチガチに緊張してる女の子に「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。なんとかなるもんだよ」って、背後霊みたいなポジションから語りかけてる感じ。たぶん、過去の自分を救済しにいってるんですね。


isako:「慣れない教室と女の子」の話、いいですね。村上春樹が言う「地下2階」の創作論に似てる気がします。書き手が一貫して持っている物語が、執筆の深いところに繋がってるみたいな。物語の本質部分というか、大澤先生の「慣れない教室」の風景みたいなのは、おれにはなくて、わりと小説ごとに底の部分は代わってる感じなのかなと思ってます。


大澤:そうかな? わたしはisakoさんの作品って「アイデンティティの寄る辺なさ」みたいなのが通底している感じがします。『「文化」とは〜』は露骨ですけど、『人間のあなたは〜』でも語り部は自己を人間として捉えられてないし、『しみちゃん~』でもそうですよね。異常者が「それでも自分は人間か?(人間だ)」みたいな思索をするっていうのが、基本的な軸としてある気がします。


isako:そうですね。おれはよく問題を内側に設定しがちだと思います。あんまり内に内に潜り込むばかりだと物語としては全然面白くないので、そこが難しいところですよね。コメディチックに悲しい話を書きたいんですが、なかなか難しい。小説で笑いをやるのが最近のおれの課題ですね。


大澤:コメディちっくに悲しい話、『海辺のカフカ』のナカタさんパートとかよくないですか?


isako:わかります。あのとぼけた感じいいですよね。『海辺のカフカ』はなんかほかの村上春樹とは毛色ちがいますよね。かなりわかりやすい。いいもんとわるもんがはっきりしてる感を覚えてます。なにより、今から旅立つ男の子の話でしたから。


大澤:ポップですよね。


isako:今の市場でウケることを狙うと、まず外枠の太さというか、読者が好んで選んでくれる衣装を小説に着せてあげないといけない。そういう風によく思いますね。でもたぶん、狙ってそれをやるんじゃあ、たいしたものはできないのかなとも……。


大澤:ベクトルが内向きすぎるわたしたちにとっては、やっぱりキーワードはポップさになってくるんですけど、なにしろ元がポップな人格をしてないので、分かんないですよね。ポップ。なんも分からん。

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