ノラとかいう斜め上自意識バースト女、あるいはいきなり虚無になる籠原スナヲ


大澤:えっと、この手の女性の自立とかそういう話題で外せないのは、あとはイプセンの『人形の家』かな。わたしが持っているのは矢崎源九郎訳の新潮文庫版で、訳が古いのもあってさすがにちょっとしんどいし、話じたいもあんまり好きじゃないんだけど。


籠原(虚無):イプセン『人形の家』はあまり好みではないというか、別に文学作品に対して道徳的お説教されたいわけでは私はないので。マジ高村光太郎のドSっぷりとか谷崎潤一郎のドMっぷりについて語るほうが私は有意義な時間を過ごせた。マジで『人形の家』どうでもいいんじゃないですか。エロいのこれ? エロくないと思うのは私の感性が乏しいだけかもしれないけれどさあ。


大澤:いや、その顔……まあいいや。ていうかこれ、女性の自立の物語みたいによく言われるんですけれど、これを女性の自立と言っちゃうのはかなり筋が悪いんですよね。ちょっとざっとあらすじ説明しますけど――うろ覚えなので細部はちょっとアレかもしれませんが――えっとね、まず夫と結婚した直後にいっぱいお金をつかってイタリア旅行しているんですけれども、これノラが文書偽造して夫に内緒で手に入れたお金なんですね。で、それをノラは「自分のお手柄」「お金儲けなんか簡単」「わたしって知恵ものだわ」みたいに思ってるの。もちろんそれは後でバレるんだけど、偽造に気がついたのが後に夫が頭取になる銀行の人なのね。で、夫はこの人のことめっちゃ嫌いだからソッコーでクビにしようとするんだけれど、その人もクビにされたら困るから、ノラがやった文書偽造のことで夫を脅すわけ。それで、めっちゃ夫に怒られてノラは家出をするんだけれど、その最後に家出するときのノラの台詞だけがひとり歩きしちゃっている感じがあるんですよね。最終的には文書偽造の話は内々に処理されて問題にはならなかったみたいなんだけど、これを「女性の自立の物語」みたいに担ぎ上げちゃうの、ちょっと筋が悪い気がしません?


籠原(虚無):そもそもその手の「女性の自立」とやらはさあ、精神的自立とも経済的自立とも異なる単なるマジックワードだから何の意味もない。精神的自立については当人が自由意志の下で行動すればそれを立証できるだけだし、経済的自立にについて言えば単に当人が仕事に就いていればいいだけの話だよね。そのどちらでもない「自立」はただ女に疚しさや後ろめたさを植え付けるだけの卑怯極まりない装置で、私たちはただ「じゃあイプセン面白かった?」と訊けばいいんだよ。


大澤:それはその人の「面白い」次第じゃないですかね? なんていうのかな、これもまあ物語フィルターの話で、客観的に言うとノラってたんに文書偽造して「お金作るのなんか簡単じゃーん」ってなっているぬくぬくと育ってきたアホのお嬢様で、その認識の歪みは最後まで是正されないのね。彼女にとっては、不正がバレて夫に散々糾弾された後でさえ、自分のやった文書偽造は罪ではなく、逆に生きがいを感じるほどの秘密で「誇らしくも嬉しく思う」ことなんです。「こんなに素晴らしいことをわたしは夫にしてあげたのに、それがただ犯罪であるというだけの理由で、夫はわたしを叱りつける。わたしが夫を助けてあげたのに、夫はわたしのことを助けてはくれなかった」これが最後のノラと夫の断絶です。怖くないですか?


籠原(虚無):う~ん、まあノラちゃんの気持ちは分からなくもないんですよ。もしも私が百合的な意味でノラの夫というポジションに収まっていたら、少なくともノラの夫みたいに彼女を罵ったりはしないよなあと思います。抱きしめる――とは行かないまでも少し考えるべきではないでしょうか。とりあえず私はそういうことができないヤツを理解できない感じですね。


大澤:断絶だ(真顔)


籠原(虚無):社会的な倫理道徳や世間的な常識良識よりも大切なことがある、という世界観を共有できない奴はまず人間的に信用できないんですよね。


大澤:んっとね、まあそういう物語として誰に移入するかとかは別に自由だとは思うんだけど。おそらくこの読解はわたしのアクロバット解釈ではなくて、最初からイプセンはそういう「ぬくぬく育ってきて現実見えてないお嬢様」としてノラを描いているのね、ちゃんとノラに対して「お前それは浅はかだぞ絶対に後でバレて大変なことになるぞ」って忠告してくる役もいるし。だから、たぶん最後のほうの台詞だけが切り出されてひとり歩きして、それで政治的に利用されちゃったんだと思うの。普通に通して読んでいれば「いやお前自分でなにも自分のケツ拭けてないじゃん」って分かるんだけど、これを女性の自立の物語として担ぎ上げていた人たち、ちゃんと読んでなかったんじゃないかな。政治的な人って、物語まで自分の物語フィルターを通して見ちゃうからやっかいですよね。わたしは小説とか物語というものに対してちょっと暑苦しいところがあるので、そういったものを政治闘争の道具にまで使わないでほしいという思いはあります。


籠原(虚無):それはもちろんよく分かりますけどね。でも、なんていうか、ノラの夫ひどいねという気持ちは普通に否めない。ノラちゃんはは何ひとつ悪いことなんてしていないというのに(言いすぎ)


大澤:断絶だ(真顔) 普通に犯罪行為ですからね。それで自分が断罪されることまで含めて覚悟のうえでの行為ならまだ分かりますけど、ノラはぬくぬくお嬢様で見通しが甘かっただけですから、そういう確固とした覚悟とかはなにもない。わたしって頭がよろしいわ~って思ってるの。


籠原(虚無):法的な許可不許可と道徳的な善い悪いは別ですし、いずれにせよ私は正義と愛と天秤にかけたら愛を選ぶ人間なんですよね。仮に悪いことだとしても泥を被るのは当時の価値観で言えば夫なんです。私にはその役割を放棄しているように見える。元の話題に戻って言えば、彼は妻を対等に見ていないから駄目なのではなく――むしろ半端に対等に見ているから駄目なんですよ。ノブレスオブリーシュを欠いたリーダーシップは醜悪だというだけの話ですよねこれは。


大澤:ふぅん、まあいいけど。なんか創作論てきなところに着地したいですね?


籠原:では着地しましょう(笑)

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