顔が綺麗なだけのサイコパスは脳にいい……


isako:小説を書くに至ったきっかけって、ありましたか?


大澤:これは何回か言ってるんですけど、個人への嫌がらせのためですね。ツイッターのタイムラインにいるkaredoさんってのが小説書いてる風のことを呟いてるんだけど、一向に肝心の小説が出てこないので、じゃあわたしが先に書き上げてやろうって2週間くらいで書いたのがデビュー作の第1話です。煽るにしても、そういう煽りかたをしていく文化圏なのです。


isako:『おにぎりスタッバー』ですね。カクヨム版で恐縮なんですけど、あのカッコよかった先輩が物語の終りでもまだ頭おかしい感じのままなの、すごくいいですよね。


大澤:カクヨム版はわりと素直にバトル漫画展開してて、どんどんインフレしていくんですよね、たしか。最終的に穂高先輩は「神のなりそこない」みたいな存在になってて、完全には直ってない。いろいろと神秘的な力の干渉を受けてて、すでに穂高先輩と呼べる人格なのかも分からない。でも、直るとか直らないとか、なに? 結局、個人の連続性を担保してるのなんて肉体だけでしょ? じゃあ、この人はやっぱりわたしが大好きな穂高先輩ってことでいいよね? みたいな、梓の巨大な愛エンドだったような気がします。あんまり覚えてないんですけど。


isako:物語内で失われたものが戻ってくるのがベタという前提があるとして、それが戻ってはこないけど一応調和には至る。みたいな物語がけっこう好きで、おれは『おにぎりスタッバー』にもそれを感じてましたね。現実により近い不安定さがあったと思います。


大澤:商業のほうは2冊で終わっちゃったのでそこまで行けなかったんですけど、順調にいけば全5冊くらいで、やっぱり同じテーマをやる予定でした。いつかやりたいですね。人間が変わったとか変わらないとか、おかしくなったとか治ったとか、どうフレーミングしてどう判断してるの? みたいな話。


isako:価値を問うわけですね。「あのひと変わってしまったね」と言うひとがいたとして、それは言うひとからすれば負の方向なのかもしれないけど、「変わってしまったひと」にとってはしかるべき流れがあって、そのひとは行くべき場所にむかっている最中なのかもしれない。それでも「あのひと」のそばにい続けることができるひともいるわけですし。


大澤:穂高先輩は最後変な人になってて、すっかり変わっちゃったんだけど、梓は「これはこれでまあいいか。いいところもちゃんとあるし」みたいなノリで大らかで、変わらず穂高先輩のことがちゃんと好き、みたいな感じなんですけど。でも穂高先輩は最初からわりとサイコパスな人格に設定してて、第一話でも「殺らなきゃ殺られるな」「あ、殺れるチャンスあるな?」でノータイムで息の根を止めにいってて、異常な即断即決力がある。基本は善良に振る舞ってるんだけど損得でソロバン弾くと大抵の場面で善良であることが得だからそうしているだけで、殺したほうが得と判断したら躊躇なくノータイムで人を殺せる、みたいな。梓の主観叙述なのでヒーローっぽく見えるだけで、書かれてる情報を箇条書きにするとこれただのサイコパスでは? ってなるようにしてました。


isako:語り手が持つ印象と読み手が受け取るであろう印象をあえて区別させる目論見があったんですね。


大澤:わたしとしては、梓がひとりで盛り上がってるけど、傍で見てる読者は「でも穂高先輩なんかヤバくね?」ってなるようなのを狙ってて、でもあまり作用しなかったみたいなので、読者はわりと語り部の主観叙述を素直に飲み込んでくれるっぽいですね。失敗失敗。まあ、なにごともやってみないと分からないので。


isako:そうなんだ。おれも梓の主観にはまり込んでたのかな……。


大澤:穂高くんは顔が綺麗なので(きっと)。顔が綺麗なだけのサイコパスは脳にいい……。


isako:サイコパスには魅力がありますね。物語を引っ張るパワーがある。


大澤:ていうか物語において、物語をドライブしていくキャラクターって一貫性を求められがちなので、基本サイコパスになりますよね。人間はだいたい一貫してなくて「え? なんか今回はめんどいからパス」とか全然あるんだけど、物語だとそれはあんまり許されないから。現実では、ちゃんと一貫した道理で動いとるやつ、基本サイコですよ。


isako:ブレを許さないのは読者ですか? それとも筆者?


大澤:うーん、どうなんでしょう? 言葉遊びにしかならない予感もしますが、小説の場合は強いて言えば「構造」でしょうか。基本はテキストによる情報しかないわけで、たとえば喋りかたがブレると困るでしょう? 口調がしょっちゅう変わるキャラみたいなのは表現しづらい。一人称が「わたし」だったり「僕」だったり「俺」だったりと場面ごとに使い分けたりしないで、常に一貫した一人称使ってほしいですよね。余程の意図がない限りは一貫性を持たせた方がいい。


isako:一人称にブレがあると妙になっちゃいますもんね。現実の人間でも一人称を変えて話しているひとがいると、社会的な要請があるのはわかるけど、やっぱり目につくというか耳につくというか、すぐに気づく。


大澤:また自作語りで恐縮なんですけど『中年おじさんの作り方』のブチョーは基本的に一人称が「私」なんですけど、興奮してキレた時は「俺」になるんですよ。そういうキャラクターで、作中で一度だけ「俺」って言ってる。そういうの、現実の人間には普通にありますよね? で、そういう自分なりのエクスキューズはちゃんと用意してたんですけど、でもやっぱり「アンフェア!」って言ってくる人はいたので。


isako:そういう細かいとこに突っ込んでくる読者もいるんですね。面白い。でも出したかったところを理解されず批判になってしまったのは悲しいですね。


大澤:まあでも、意図して使うのはいいと思うんですけど、読者に負荷は掛かるので。読者にかかる負荷よりやりたい表現の効果が上回ってないとやらないほうがよい。でも読者に負荷をかけてでも振り回すみたいなのも許されるので、そこは効果と負荷のコスパで決まるみたいな。わたしは一文の中で場面が飛ぶみたいなのを時々やりますけど、基本は悪手ですよね。


isako:実験的な手法は好き嫌い分かれることが多いでしょうからね。思いついても安易に手は出せませんね。

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