終章 おはようレムレス

おはよう、レムレス


 桟橋に女が立っている。くりくりと大きな緑の瞳、小さく整った鼻、熟し始めた果実のようにふっくらした唇――誰もが見惚れる顔かたち。風が吹くと海色の長い髪が鮮やかにきらめいた。

 白衣のポケットに手を突っ込んだまま、彼女はじっと海を見つめる。


 何か考えているようで何も考えていない。

 ただ、故郷の風を感じている。


 作業服の男が坂道を駆け下りてきた。すみませーん、と彼女を呼び止め、手にした図案を見せる。彼女は図案を指差しながら丁寧に指示を与えてゆく。数分の打ち合わせののち、男は一礼して自分の持ち場に戻った――海砦レムレスの修繕しゅうぜんしなければいけない場所へ。

 工事は最終段階に差し掛かっていた。レムレスを覆い尽くしていた塩と土は取り除かれ、風化した建物は新しく建て替えられた。半月後にはかつての姿を取り戻す……否、生まれ変わる。

 過去を飲み込んで、新しいレムレスに、変わる。



「ネムル!」

 名前を呼ばれて、女――楠木ネムルは振り返った。

 男がぜいぜいと荒い息を吐いていた。全速力で走ってきたらしい。燃えるような赤い髪が汗で湿っている。膝に手をついて呼吸を整える間も、茶色い瞳をレムレスのあちこちへ走らせて忙しない。

「渚」とネムルは友達の名前を呼んだ。

「よくここが分かったな」

「分かるも何も……」渚は苦笑する。

「目が覚めたらレムレスがすっかり変わっちまっていて、お前は家からいなくなってるし、何かあると思わない方がおかしいだろ」

「君たちへのサプライズ・プレゼントだよ」

 白衣の袖で口元を抑えてネムルはくすくす笑った。

「砦全体に投射していた廃墟の偽装ぎそうを解いたんだ……基礎工事はとうの昔に終わっていた」

 打って変わって静かな声で、

「本当は、遺作にする予定でいたんだが」



 夢から覚めて二ヶ月が過ぎた。

 レムレスを脱したネムルとユークは水上兄妹の自宅に身を寄せていた。

 家に辿り着いてすぐネムルは熱を出した。生まれつきの虚弱体質にくわえ極度の疲労が拍車を掛けた。何日も高熱が続き、「夢見る機械」の発明者とは思えない出来損ないの悪夢をたくさん見た。

 熱が治まると今度は夢うつつの状態に陥った。「MARK-S」時代に受け続けたストレスの反動からか平和な毎日に実感が沸かない。虚脱したネムルの身体を空白の日々が通り過ぎた。

 組織を離脱するまでの経緯を詳しく知りたいと渚は考えていたが、魂が抜けたようにぼんやりしている彼女を問い詰めるわけにもいかない。

「済んだことはもう良いのよ」

 甲斐甲斐かいがいしくネムルの世話を焼くユークにおいてはこの一点張りだ。

 そこで馴染なじみの界隈に聞きこみをし、相手の動向を探ってみた。

 しかし、いくら調査しても「MARK-S」が裏切り者の科学者を探しているという噂は聞かない。

 事務所で初めて会ったとき、ユークはこう言っていた。


 ――死線をかいくぐる兵士みたいな生活をしながら、ようやく縁を切ることができたの。


 どうやらその話は本当らしい。

 それなら無理に聞き出す必要もないか、と渚は考え直した。ネムルは地獄のような過去の残影から静かに這い上がろうとしている。ふさがり始めた傷を暴くのはやめよう。


 ところがある朝、ふいにネムルは話し始めた。「MARK-S」で過ごした暗澹たる日々のことを――忌まわしき発明・実験・研究。そこで出会った人々の吐き気がするような欲望と陰謀。そして自分も生き延びようとするあまり、どす黒い水の中に首までどっぷり浸かっていた。たくさんの人を傷つけ、間接的であるにしろ人を殺した。

 それは決して許されることではないし、許してもらおうとも思っていない、とネムルは静かに語った。

「こうして話し終えてみると……」ネムルは深い溜息を吐いた。

「七年もの歳月が一夜の長い夢のようだ――辛く、苦しい夜だった」



 乾いた風が二人の間をすり抜けた。海岸を跳ね回っていた鳥たちが、空を見上げ、飛び立った。

 ネムルは白衣のポケットに、渚はコートのポケットにそれぞれ手を突っ込んで、かつて見たレムレスそっくりの――しかし決定的に同じではないレムレスを見上げる。

 作業に従事する男たち以外、この場所には誰もいない。かつての住人たちも今どこにいるのか分からない。

「なあ」と渚は声を掛けた。

「これからどうする?」

「〝曼荼羅ガレージ〟に戻る」

「住むのか? このレムレスに?」

「ここはボクの故郷だから……」

「お前、自分が何を言っているのか分かってんのか?」

 真剣な顔で渚はネムルを見る。その目が、忍びやかに海の向こう側――街へと動く。街の中心にそびえる、奇抜な高層ビルに向かって。

「MARK-S」との縁は切れているとユークは断言している。用意周到な彼女のことだから無計画に逃亡を図るはずがない。それ相応の切り札や後ろ盾があるのだろう。

 それでも……。

「敵陣の目と鼻の先に城を築いて、切れた縁を結び直すつもりか? 自棄やけを起こしているわけじゃないだろうな?」

「渚」

 訝しげな渚とは反対にネムルは優しく微笑んだ。


「城じゃない――ここは、砦だよ」


 その笑顔のあまりの美しさに、渚は言葉を詰まらせた。

 天才的な頭脳を持つ彼女だが、このときばかりは論理や理屈とはかけ離れた不思議な力を宿しているように見えた。まるで誰かが彼女の行く先を見守り、彼女自身もそれを自覚しているかのように。

「ボクは剣を持っている。父上から授かったすごい剣だよ」

 ネムルはすぐに知性の光を取り戻した。人差し指を立てて自分のこめかみを指差す――その中に埋まった脳を。

「他人を傷つけるためじゃない。自分を傷つけるためでもない。ボクの知性、その剣は大切な人を守るためにある……君の代わりにユークが目覚めたのは、きっと、そういうことだよね?」

 答えの返らない問いを海に向かって投げかけた。

 

 桟橋の上。かつて、ここで好きな人と夕陽を見た。切ない夏の空色が瞼の裏に蘇る。

 それは永遠の、美しい夢だ。


 目を開ける。青い海が一面に広がっている。陽炎かげろうに揺らめく水平線に浮かぶ影は水上自転車だ。渚もサングラスを外すと目を細めて彼方を見やる。

 一台の水上自転車が、二人の元へやってくる。

 運転席にさりゅが、後部座席にユークが座っている。二人とも波に揺られる度にきゃーっと悲鳴をあげて大変なはしゃぎぶりだ。

 でたらめな軌道を描く自転車はふらふらと左右に揺れ動き、いつ転覆してもおかしくない。


「守るって、大変だぜ」渚は言った。

「最近の若いやつらは水上自転車の乗り方も知らないんだからな」

 頭を掻きながら、桟橋を引き返していく。飄々ひょうひょうとした足取りだが、内心は心配で仕方ないらしく、徐々に歩調が速くなり、橋を渡り切った辺りから全速力で駆け出した。

 心配性の友人を見送った後、ネムルはその先に続く巨大な砦を振り仰いだ。

 青空を背に雄大な山のようにそびえる故郷。


 海砦レムレス。

 みんなのいる場所、ボクの帰る場所。


「頑張るから」小さな声でつぶやく。

「君は、そこで見てて」

 その囁きは波の音に紛れて消えた。これで良い。これで良いんだとネムルは思う。


 そして彼女は歩き出す。

 海岸で待つ大好きな人たちに向かって。

 これから生まれる、たくさんの思い出の在処へ。




<青春ノスタルジック 完>

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