仮想2


          9


 どんな結果が待ち受けているか分からない未知の扉を開けるのは勇気がいる。それがギャングのアジトへ続くドアだろうと、知り合いの病室へ続くドアだろうと同じことだ。

 冷たい取っ手を握りしめ、深呼吸。

 覚悟を決めて、扉を開けた。

「おやっ、探偵さんじゃないか!」

 ヤナさんがいた。ベッドから身を起こして、にこにこしながら手を振ってくれる。俺も笑う。いつもの調子で。

「ついさっき、ナギとセツナちゃんがお見舞いに来てくれたんだよ」

「惜しかったな。セツナちゃん、会いたかったのに」

 本当は、知ってる。あの二人が帰るのを見届けてヤナさんに会うつもりでいた。あいつらは夢にも思わないだろう。あの頃の俺が何も知らなかったように。

 甘いにおいがする。

「セツナちゃんがクッキー焼いてくれたんだよ」

 ヤナさんは包み紙を差し出した。

「すっごく美味しいんだよ。あの子、良いお嫁さんになるね。あたしも見習わなくちゃなー」

 のほほんとした彼女の言葉。俺は苦笑する。苦笑して、少し泣きたい気持ちになる。

「星屑ストア」でどんぱち騒ぎがあった日、ヤナさんは倒れた。そしてこの病院に搬送された。チンピラに襲われて怪我をしたわけじゃない。「このあたしが過労でぶっ倒れちまうなんてね」とヤナさんは笑うが、過労なんて嘘だ。


「俺には、隠さないでください」

「うん?」

「〝星屑の病〟なんでしょ」


 ヤナさんは両手に持っていたクッキーの包み紙を膝に置いた。こみ上げる感情を処理するように、チェックの包み紙を凝視したまま、数秒間動かずにいた。

 ヤナさんはゆっくりと顔を上げた。茶褐色の目を細め、いつものように明るい笑顔で、

「探偵さん、名推理だよ」

 その笑顔の上を涙が滑り落ちた。


 俺の記憶通りなら、ちょうどこの夏の終りにヤナさんは死ぬ。病状は重く、医者からも「こんな状態で入院もせず、良く死なないでいたものだ」と驚かれたらしい。

 訃報を受け取ったのは、ヤナさんが死んでしばらく経ってから。身寄りのないヤナさんは、俺や店の常連客や格闘家時代に世話になった人々に宛てて手紙を遺していた。「黙って旅立ってしまい申し訳ない。あたしに弱さは似合わないから赦してほしい」とその手紙には書いてあった。


 俺は、裏切られた気がした。

 俺が悩んでいたとき、「一人で抱え込むな」と言ったのはヤナさんじゃないか。そのヤナさんが一人で死んでしまうなんてあんまりだ。俺は誰よりもヤナさんが復帰する日を心待ちにしていた。

 また「星屑ストア」で働ける日を楽しみに待っていたのに……。

 悲しみよりも怒りが先行して、それから俺はヤナさんを思い出すのを止めた。墓参りにも行かなかった。夢の世界に入るまで、心に封じ込めていた記憶。その記憶から「夢見る機械」が導き出した答えは嘘か誠か分からないが、俺は今、ヤナさんの泣き顔を初めて見ている。

「探偵さん、あたし、もう長くないんだ。全身に星屑の斑点が出ているの……きれいじゃないけど、見てくれないかな」

「見せてください」

 ヤナさんは病衣をそっと脱いだ。

 日に焼けた胸の真ん中から、黒い泉が沸きだすように無数の斑点が広がっている。斑点の一つ一つをよく見ると星の形をしていて、まるで星を散らしたように見える。これが「星屑の病」の由来だ。やがてこの斑点が全身を覆い尽くし、死に至る。


 延命治療すら虚しい、末期症状。


 慰めや励ましの言葉をたくさん考えていたのに――いや、他にも言いたいことがたくさんあったはずなのに――すべて失った。

「あたし、まだ二十四歳なんだ」ヤナさんの声は滲んでいた。

「ばあさまの店、守んなきゃいけないんだ。あたしを待っててくれる人たちのためにもっともっと頑張れるのに……どうしてここで終りなの。料理だって覚えたいよ。恋愛だってたくさんしたい。やりたいことたくさんあるのに、それなのに死んじゃうんだ……あたし……」

 ヤナさんは膝を抱えて、顔を伏せた。くぐもった嗚咽がその中から聞こえてくる。クッキーの何枚かが腿から落ちてシーツの上を転がった。

 ヤナさんは強い。俺よりも強い。何せ世界へ立ち向かおうとした百戦錬磨のファイターだ。だからこそ現実では悲しみを心に秘めたまま孤独のうちに死んでいった。

 二度と同じ苦しみを味わわせたくない。

「俺が、あなたを救う」

 ヤナさんは伏せていた顔を上げた。

「俺がどうにかする。セツナのことも全部ひっくるめて、ひっくり返してやる。だから泣かないでくれ。俺に任せてくれれば、絶対に――」

 ヤナさんは涙に濡れた目で俺を見て――ぷっ、と吹き出した。

「探偵さんの熱いところ、ナギにそっくり」

「あんなやつと一緒にしないでくれ!」

「ナギと同じこと言ってる!」

 クスクスと笑われる。

「笑ってる場合かよ! 俺は真剣なんだぞ!」

「だって、すごく似てるんだもん。ここまで似ているとナギと同じ対応になっちゃうよ」

 そう言って、頭をガシガシ撫でられた。懐かしい力強さだ。今の俺はこの人と同じ年のはずなのに、いつまで経っても適わない。

「湿っぽいのはあたしらしくない。たった一度きりの人生、ばあさまに笑われないように、きちんと戦い抜かなきゃね」

 ヤナさんは服を着直す。両手で襟を正すと、青い病衣が戦いに臨むための勇ましい胴衣に見えた。

「きっと上手くいく。苦しくても、辛くても――死んじゃっても、あたしの知らないどこかで必ず上手くいくって、あたしは信じているから」



 病院のエントランスでユークが待っていた。相棒のウサギも一緒だ。

 すたすたと俺の下へやってきて、白い手を差し出す。

「灯台守を渡してちょうだい」

「持ってない」

「持ってくるって言ったでしょ」

「場所を知ってる。持ってきてやる代わりに――」

「死の記憶を書き換えることは不可能」

 ユークは即答した。この上なくうんざりした顔で。

「私たちはセツナやヤナが死ぬことを知っている。偽の未来をでっちあげようとすれば、記憶と夢との間に矛盾が生じて世界が崩壊してしまう……寝言なら、目覚めてから言いなさい」

「それならお前が〝覚えて〟おけばいい。俺やお前みたいな矛盾がいくつできても良いように」

「愚かね。私たちは夢に入ってしまっているのよ。現実の記憶を刷り込ませるにはもう遅い。そもそも私は現実ホンモノの彼女たちを知らない。これじゃ〝覚え〟ようがないでしょ――あなた、もう少し分別のある人間だと思っていたのに、がっかりよ」

「今は分別の話なんてしてないだろ!」


 ユークが一瞬たじろいだ。それでも鋭い目の光は俺を捉えたまま離さない。

「灯台守を渡しなさい」

「嫌だ」

「子供みたいな駄々をこねないで」

「子供じゃねぇっ! 俺は……俺はもう、あの頃のオレとは違うんだよ! 好きなやつが死んでいくのを、指をくわえて見ているだけのガキじゃない!」

「……」

「事実を変えて世界が崩壊するっていうんなら、時間を巻き戻すだけでいい。俺とネムルでなんとかする。〝星屑の病〟の治療薬も〝夢見る機械〟もあいつが作ったものだ。ネムルならセツナやヤナさんを救う方法が……」

 ぱんっ! と弾けた音がした。頬に熱い痛みが走る。呆気に取られてユークを見た。

 ユークは怒っていた。毛を逆立てた猫のように、フーフーと荒く息を吐きながら。


「目を覚ましなさいっ!」ユークは怒鳴った。


「やり直しのきく過去なんてない。セツナもヤナも死んだのよ。ここで病気を治したってそんなの自己満足でしかないじゃない!」

 ユーク、と名前を呼ぼうとしたが声が掠れて出てこない。叩かれた頬はじんじんと疼いたままだ。

 ……本当は、気づいていた。いくらもがいてもどうにもならない。だってここはニセモノの世界。楽しくても、嬉しくても、いつも何かが欠けている。

 その何かは、決して埋まることはない。

 ウサギがぴょんぴょんとジャンプしてユークの掌に納まった。

 一人と一匹はまるで写真に焼き付けられたように動かない。

「生者は立ち止まってはいけないの」ユークは言った。

「あなたは先へ進むしかない。どんな過去を背負っていようと、どんな終りが待ち受けていようと進むしかない。理由なんて知らないわ。それしか道がないんだから、しょうがないじゃない」

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