君は死なない


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「いやーん、起きなーい。まだ眠たいからぁー。ぐーすかぴ~」

 何回からかわれたかわからない。その度に微妙にアレンジが加えられていて腹立つ。

「もーっ、しつこいっ!」

 背伸びしなくとも余裕で見える、真っ青なつむじに空手チョップを喰らわすと「ふぐぅう……」とうめいて床に沈んだ。

「こら、セツナ! ボクの脳に傷がついたら、君は歴史的な知の可能性を潰したことになるんだぞっ!」って、相変わらずわけの分かんないことを言っているけれど無視よ、無視。


 放課後のチャイムが鳴ると、どの生徒も急ぎ足に校門を抜ける。試験一週間前なので、部活動がないのだ。いつもなら、すぐさまグラウンドへ駆け出していくナギも今日は学ラン姿のまま、あたしたちの前を歩いている。

 ナギの歩くペースは早い。歩調が合わずに、段々と距離が広がってゆく。

 名前を呼んで、ようやく気づいてくれる。

「悪い、ぼーっとしてた」そう言って笑う。

「これからうちで勉強会しない?」反射的に誘いかけた。

「ネムルがいると、分かんないところ、教えてくれるし……」


 なぜだろう、言葉の端が消え入るように小さくなる。ごく自然に誘いかけているつもりが、何か悪いことを言っているような気がして、喋っている傍からナギの返事を待ちわびている。

「ごめん」

 凛と張った声でナギが言って、あたしは身体ごと後ろへ押し返されそうになる。

「これから用事があるんだ」

「用事って?」

「バイトだよ」

「えっ、バイト?」

 ナギ、アルバイト始めたんだ。知らなかった……。

「試験前だけど、大丈夫なの?」

「部活のないときしか働けないから」

「何か欲しいものでもあるの?」

「ああ……、そのうち教える」

 いつもの仏頂面に隠れて、ナギはちょっとだけ照れていた。

 なんだろう、すごく気になる……。

「バイト、四時半からなんだ。ごめん、先に行く」

 鞄を背負い直すと弾くように地面を蹴って、黒い背中はあっという間に地平の向こうへ消えた。程なくして、水上自動二輪アクアバギーが海の上を滑っていくのが見えた。

 ネムルが両手を双眼鏡の形にして白くたわんだ航跡を追う。

「せっかちなヤツだな。いかにも走るのが得意そうだ」

 そのままあたしを振り仰いで、

「ボクも今日は家に帰るよ。修理しないといけないメカが山ほど溜まっているんでね」

「そう……。それじゃ、商業区まで送るわね」

「セツナ」

「なに?」

「みんなにフラれて可哀想になあ。よーしよーし、寂しくても泣くんじゃないぞー」

「ちょっ……!? なんで胸ばっか揉んでくるわけ!?」

「ボクの背丈じゃ君の胸しか撫でられないんだよねー」

「撫でなくてよろしい!」

 ちぇっ、とつぶやいてネムルはわざとらしく足下の石を蹴飛ばした。



 空は夕焼けに移ろっていた。熱い夕陽が、褪せた青空を徐々に茜色へ塗り替える。ほんのりピンク色に染まった海の上を水上自転車が走る。

 きらめく水面。海風。潮のにおい。

 あったかくて、美しい。このまま夜が来なければいいのに。

「……受験」

「うん?」

「する意味あるのかな」

「勉強がイヤになったのか?」

「勉強は好き。看護師になる夢も諦めてない。それでも時々やるせなくなるの。自分の生命について考えると、すべてがどうでも良く思えて……嫌になる」


 空はこんなにもきれいで、身体はふんわり温かくて、この一瞬はとても美しい。

 それなのにあたしは、永遠に続いてほしいと思う時間を壊してしまう。

 嫌なことなんて考えたくない。

 短い人生だからこそ、たくさんの幸せを感じていたい。


 だけど……。


 幸せな時間は、あっという間に過ぎるもの。幸せを感じれば感じるほど時が加速してすぐに死んでしまいそう。だから、あたしは楽しい時間を壊すの? 不幸に包まれて、一秒でも長く生き延びるために?

 ……分からない。

 刹那せつなの幸せか、悠久ゆうきゅうの不幸か。

 神様の天秤に乗せて、針が傾くのはどっちかな。

 商業区に到着した。係船柱けいせんちゅうに自転車を繋ぎ止めて、船着き場へ降り立つ。差し出した手をネムルはぎゅっと掴んだ。

 陸に上がってもあたしの手を離さない。


「君は死なない」


 気怠げな寝ぼけ眼が開いた。長い間封じられていた、秘密の箱が開くように。緑色の大きな瞳が、熱く淡い空気の中できらめく。

「ええっと、すぐには死なないわよ。明日も生きてるし、明後日だって生きてるだろうし……」

 慌てて取り繕うにも、ネムルの真剣な眼差しは変わらない。

「君は死なない」

 きっぱりと断言する。

「ボクもナギもさりゅも死なない……君はただ前を向いて、笑っていれば良いんだよ」


 雲間から西日が細長い筋になって矢のように降り注ぐ。あたしとネムルが立つ、この埠頭にも。

 火色の光が彼女に届くと、胸元に吊り下げられたペンダントがカタカタ鳴った。透明な筒の中に真っ白な珊瑚の化石が入っている。それが微かに揺れて、音を立てているみたい。

 ネムルは走り出した。小さな足が商業区の長い坂道を駆け上る。ポニーテイルを作っていた輪ゴムが弾けて、直毛の青い髪が広がった。

 風に吹かれて、自由の旗のようにひらめく。

「セツナ!」

 仄暗い闇の中で、ネムルの真っ白な顔が、腕が、脚が、掌が、輝きだした恒星のように明るい光を放った。

「ボクたちは生き続ける! それは永遠の約束だ!」

 生きとし生けるものすべての宿命を無視して、ネムルは大きく手を振った。

 あたしも手を振り返した。論理的でないことを言ったときの方が可愛いじゃない、と思いながら。

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