とにかく、私はこういう者です

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 ぼやけた視界にイルカ時計が映っている。

 時刻は七時。

 ちっ、遅刻!?

 慌てて起き上がったものの、辺りの薄暗さで気がついた。

 朝じゃない、夜だ。

 家に帰り着いてすぐ、疲れて眠ってしまったみたい。

 部屋着に着替え、乱れた前髪をピンで止める。

 ぺちぺちと頬を叩いて入魂。


 よし! 試験勉強、しよう!


 鞄から数学の教科書を取り出して、食べかけのチョコレートも一緒に出して、かじりながら復習を始める。

 一つだけ、どうしても理解できない方程式がある。

 チョコレートをかじって、シャーペンの先端をかじって、またチョコレートをかじって、終いにはどっちをかじっているのか分からなくなってきた。

 数字を見ると頭がぼんやりしてくるのは、文系の悲しい性ね。

 反対に、理数系のナギは文章を読んでいると眠くなるって言っていたっけ。国語の文章題の答えはどれも同じに見えるとか。

「……」

 椅子の背にもたれて、天井を見上げる。

 アルバイト、か。

 あたしが呑気に寝ている間も、ナギはお金を稼いでいたんだよね。


 下校途中に気がついた。ナギは一年前よりも背が高くなってる。ううん、それだけじゃなくて、なんというか……大人みたいになってきてる。

 あたしの方が二ヶ月先に生まれているのに、どんどん追い越されている感じ。


 呪われた運命共同体、なのに……。


 いつか遠くへ行っちゃうんじゃないかって、ナギを見ていると不安になる。高校を卒業したら三人でいられる時間が減って、やがてまったく顔を合わさなくなる日がくるのかな。

 当たり前だと思っていたことが、当たり前に思えなくなる未来が。


 ……ダメダメ。今はそんなことを考えている場合じゃない。試験に集中しなければ。


 頭を振って、ネガティブな思考をかき消す。

 そのとき、窓の外に視線を感じた。誰かがじっとこっちを見ている。

 恐る恐る目を向けると、案の定、そこにはウサギが。

「……って、ウサギ?」

 近づいて、観察する。確かに、ウサギよね? タマゴのようにつるりとした胴体に長い耳がついていて、かなりデフォルメされているけれど。

 よく見ると、ウサギは機械でできている。

 つぶらな瞳にはめ込まれているのは、カメラのレンズ?


 ――カシャッ!


「わっ!」

 その目から強烈なフラッシュ。


 ……写真、撮られた?

 これって、もしかして、盗撮?


 混乱するあたしを置いて、ウサギはぴょこーんと逃げ出した。

「ちょっ、ちょっと! 待ちなさいよ!」

 ビーチサンダルをつっかけて外へ飛び出す。

 薄暗い通りを見回すと……いた!

 人気のない街路の真ん中を、黒い影が跳ねている。


 捕まえなくちゃ、なんとしてでも!

 髪の毛ぼさぼさのむくんだ顔を、大嫌いな谷間が見えちゃってるヨレヨレのTシャツ姿を、洗濯し忘れた洋服が散乱している部屋を、現像されるわけにはいかないもの!

 

 ウサギは一直線に海へ向かっていた。海のど真ん中に位置するレムレスには人工的に作られた海岸がある。そこへ続く階段を、一跳びに飛び越えたウサギに続いてあたしもジャンプ!

 ダンクシュートを決めるように、空中でウサギを押さえつけた。


 やった! 捕まえた!


 ――ぴ、ぴぴぴぴぴ……。

 泣き声に似た機械音が聞こえるけれど、

「絶対に離さないんだから!」

 ――ぴーぴーぴー……。

「あたしの写真、消去して!」

 ――ぴっ、ピー! ピー! ピー!

「何よっ、怒ってるのっ?」

 ――ビビイビビイビビビビビイ!

「な、な……」

 ――ビビビビビビビビビッッッッ!!

「痛っっ!」


 小さな電撃が指先に走る。ウサギはあたしの掌から這い出し、大慌てで駆けていく。琥珀色の満月に照らされて、小さなシルエットは遠く彼方だ。


 逃げられた……。


 がっくりと肩を落としていると、


 ――ぴぴぴぴぴっ。


 ウサギが高く鳴いた。まるで、誰かの名を呼ぶように。

 ウサギの跳ねるその先に人影が見えた。逆光のせいでその人の姿はよく見えない。

 でも、感じる。その誰かはあたしを見ている。

 

 ……まずいかも。


 ゆっくりと近づいてくる。


 ……すっごく、まずい状況かも。


 呆然とその影を見つめながら――緊張か恐怖か――両足はぴくりとも動かない。

 近づくにつれて気づいた。とても背が高いと思っていたその人は、白と黒の靴紐が交互に混ざった底の厚い靴を履いていた。

 燃える炎のように真っ赤な髪の毛、黄色いサングラス、レザーコート。胸元で、何重にも重ねられたネックレスがきらりと光る。

 居住区にこんなに派手な男の人はいない。恐い物見たさに海砦を訪れた観光客なら、商業区のホテルに泊まっているはずだし……。


 アヤシイ……。

 アヤシすぎる……。


 男の人はあたしの前で立ち止まると、ゆっくりその場に腰を下ろした。

 サングラスの奥に見える、茶色い目。

「会いたかった」

 微かにしゃがれた、低い声。

「ずっと、ずっと、会いたかったよ……」

 冷たい香水のにおい。腕の力。鼓動。息遣い。あたしのものでない全部が、感じたことのないくらい近くに感じて、くらくらと目眩がした。


 ……落ち着いて。落ち着くのよ、セツナ。


 ここは、冷静に対処すべきところ。

 

 大きく息を吸い込んで。


 ……よしっ!


「きゃああああああぁぁぁ―――――っ!」

「うおっ!?」

「誰かああああぁぁ――――――――っ!」

「や、やめ……」

「助けてえぇぇぇ―――――――――っ!」

「わ、分かった! 分かった! 離れるからっ!」

「おまわりさ―――――――んっ!」

「離れてる! ほら、十メートル離れたからっ!」

「あと二十メートル――っ!」

「はっ、はいっ!」

「そこっ! 動かないでっ!」

「はいぃぃぃぃっ!」

 

 そして、あたしは逃げた。

 ウサギを追うより速く。全速力で。

 頭の中は、繰り返されるフレーズでいっぱい。


 ――抱きしめられた。

 ――抱きしめられた。

 ――抱きしめ、られたっ!


 これってかなり逸脱してる。あたしの描く人生像から。青春にページがあるとしたら、まるまる五十ページにわたって墨汁をぶちまけられた気分だわ。

 家に帰り着き、玄関の鍵を閉めた後、タンスを動かしてバリケードを作った。締め切った窓へ×印に板を打ち、その両側に塩を盛り、ニンニクを置いて十字を切る。ついでに念仏も唱えておこう。

 海の上の辺鄙な街で事件なんて起こるはずがないと思っていたけれど、甘かった。

 よりにもよって、あたしに「事案」が降りかかってくるとは……。


 明日、不審者撃退の武器を作ってもらおう。「曼荼羅ガレージ」の発明家・楠木ネムルなら朝飯前――いや、あいつは昼まで寝ているはずだから――きっと、昼飯時には作ってくれるはずだよね!




 というわけで翌日、「曼荼羅ガレージ」の扉を開けると……

「わあああああああ―――――――っ!」

「う、うおおおおおおおお!?」

 男の人がいた。レザーコート、厚底靴、黄色いサングラスに、燃えるような赤い髪。


 あたしを! 抱きしめた! 昨日の! ヘンタイ!


「ぎょええぇぇ―――――――!」

 すぐさま飛び退いて、床に散らばるネジや工具を手当たり次第に投げつける。

「や、やめろっ! 物を投げるな! 女の子らしくない叫びを上げるな!」


 男の人がひょいひょいと弾をかわして近づいてくる! 嫌! 嫌よ! 昨日と同じ目に遭うなんて! 「とーっても悪趣味な、チンピラファッションのヘンタイに迫られるなんて、絶っっっっ対に、嫌っ!」

「お嬢さん、思っていることが声に出てますよ!」

「近寄らないで! あっちに行って! 日本とブラジルくらいの距離を保って!」

「どーして嫌われちゃうかなあ?」

 金切はさみをキャッチして、男の人はずずいと前進。

 追い詰められて、壁に背中をつく。両腕で×印を作って身構えていると、

「ぜーんぜん、恐がることないのになあ」

 鋭い犬歯を剥き出して、ニヤリと笑った。


 ……恐い!

「さわるなキケン」の笑みよ!


「とにかく、私はこういう者です」

 そう言って、男の人は懐から一枚の紙を取り出すと恭しく差し出した。

 無地の厚紙に、


   ベイサイド探偵事務所

   右名 マサキ


 って書いてある。これ……名刺?


右名みぎなマサキと申します。街で探偵事務所を営んでおります」

 にこやかに挨拶する男の人と名刺を交互に見比べる。

 

 右名マサキ……探偵……。

 素性が知れて、益々アヤシイ。


 自己紹介が無事に終わって、彼の顔は満足感でいっぱいだ。どこからか昨日のウサギが跳ねてきて肩に登る。


 ――カシャッ!


 また写真、撮られた……。


「チンピラさん」

「右名です」

「ヘンタイさん」

「右名です」

「盗撮犯さん」

「……せめて探偵と呼んでくれませんか?」

「それじゃ、探偵さん。どうしてネムルの家にいるの?」

「仕事です」

「なんの仕事?」

「依頼人の秘密保持のため、お答えできません」

 探偵さんは揉み手をしながら愛想笑いも良いところの愛想笑いを崩さない。

 ……うーん、アヤシさ満点だけれど、ここは深く追及しない方が良さそうね。そもそもあたし、この人を寄せ付けないための道具を作ってもらいにきたんだし。


「えっと……、お仕事頑張ってください! 永遠に交わることのない別次元から応援してます!」


 探偵さんに負けないくらい爽やかな笑顔を浮かべつつ、後ろ足で上階へ続く階段を探す。

 そっと一段目に足を掛けたところで、

「おい」

「ひぃぃぃぃぃぃ――――――――っ!」

「セツナ」

「いやあああああああ―――――――っ!」

「う、うるさい……」

 ささやくような少女の声で我に返った。


 見れば階段の先で、ネムルが小さく丸まっていた。海と同じ青さのストレートヘアーを掻きむしると、ネムルはふるふると頭を振る。

 あたしと探偵さんを交互に見比べ、ふむ、と頷く。

「喧騒の原因は、考える間でもないな」

 納得顔で探偵さんに近づくと、いきなり足をガツンと蹴った。

「いってぇ!」悲鳴をあげて飛び上がる探偵さん。

「朝っぱらからうちの店でヘンタイ行為はやめてくれ」

「だから、俺はヘンタイじゃないっ!」

「暴漢……さん?」

「暴漢に〝さん〟をつけるかどうか迷うな! っていうか俺はヘンタイでも暴漢でも盗撮犯でもないってば!」

 地団駄を踏む探偵さんを見ていたネムルがぷふっと吹き出した。

「怒るなよ。ちょっとしたジョークじゃないか」

 コホン、と咳払いを一つ。ネムルはあたしに向き直る。

「安心しろ、セツナ。この男は人畜無害。良い子には加齢臭以外、一ミリたりとも危害をくわえないとても素敵なおっさんだ。ちょっとした事情があって、しばらく家に置いてやることにしたんだ」

「こらっ! おっさんって言うな! 俺はまだ二十四だ!」

「ボクたちから見れば十分におっさんだから」

「くっ……!」

 

 二人のやりとりを聞きながら考える。

「曼荼羅ガレージ」に探偵さんを置く?


 それって……。


「二人は一緒に住むってこと?」

「うん。昨日から一緒に住んでる」


 そ、そんな……嘘でしょー!?


 ネムルが男の人と一緒に暮らすなんて信じられない。しかも、相手はいきなり抱きついてくるヘンタイさん。

 ネムルだって眠っている間に裸になっちゃう無防備な女の子だし、「混ぜるなキケン」もびっくりの、これほどキケンな二人が一緒に暮らしているなんて考えただけでも恐ろしい。

 あたしは、断固、反対よ。


「そんなこと言われてもなあ」ネムルは困ったように頭を掻く。

「ボクたちは付き合いが長いから、何もキケンなことはないと思うけどなあ」

 

 付き合い!?

 つ、つ、つつ付き合いって……その……つまり……。


「どうして話してくれなかったのよ!」

「ん? いま話したじゃないか」

「前もって教えてくれても良かったのに!」

「教えるって、いったい何を?」

「全部よ、全部! こうなるまでの過程を全部!」

「うーん?」

「……おい、ネムル」

「どうした、探偵?」

「何か、まずいことになってないか?」

「まずいって何が?」

「なんつーか、空気が」

「刺激臭のする薬品は厳重に保管してあるはずだが」

「そうじゃなくて……言い方? 思春期の乙女に対する、言い方?」

「君こそその言い方はなんだ? 抽象的すぎてまったく分からないぞ」

「おいおい、少しは察してくれよ」

 小首を傾げるネムルと、苦笑する探偵さんの声が小さくなる。


 気がついたとき、あたしは「曼荼羅ガレージ」を飛び出していた。

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