灯台は、存在しない

 秋のマラソン大会に向けて男子はひたすら校庭を走らされていたみたい。蒸気になって立ち昇ってくるような汗だくの男の子たちの中で、ナギだけが涼しい顔で次の授業の準備をしていた。

「毎日、何十周走らされてると思ってんだよ」そう言って笑う。


 水上渚みかみなぎさ……通称・ナギはネムルに続くもう一人の幼馴染。

 短髪の黒髪に、こんがり日焼けした肌が目立つ男の子だ。

 あたしたち三人は海砦に移り住んだ時期も一緒で、中学生のころは何かにつけて一緒に行動していた。ナギが部活動に忙しくなってから遊ぶ機会も減ってしまったけれど、同じクラスなので寂しくはない。

 眉間にしわを寄せて、切れ長の目をくしゃっとつぶしたように笑うのがナギの癖。あたしには慣れっこのこの笑顔も、クラスメイトたちからは怒っているように見えるらしい。

 女の子がナギに話しかけるとき、襲いかかる寸前の狼を相手にしているように及び腰だ。


 ナギは椅子から立ち上がると、ネムルの前に歩み出た。

「お前はっ、サボりすぎなんだよっ!」

 低い声が響く。眉間に皺を寄せ、ネムルに向かって手を振りかざす。

 教室の空気が変わった。

 怒り。暴力。いじめ……負のキーワードがテレパシーみたいに無言の教室を飛び交う。誰もが血の気の引いた顔で二人を見ている。


 ……ナギったら、また変な誤解を受けちゃってるわね。


 空を切るように振り下ろされた手は、優しくネムルの頭に置かれた。

「やったな!」

 朗らかにナギが笑った。

「一限の、しかも体育に出るなんて、ネムルもやればできるじゃないか。この調子で頑張れよなっ!」

 なでなでなでなで。浅く焼けた手がネムルの頭を良い子良い子する。さりゅを褒めるときと同じ雰囲気で、すっかり「お兄ちゃんモード」に入っちゃっているみたい。

 ナギの中では、ネムルはさりゅに続く第二の妹の感覚。ネムルもにこにこと嬉しそうだ。

「ナギ、そんなに撫でてくれるな。脳みその皺が伸びたらボクは君たちを圧倒的に凌駕するだけのつまらない秀才に成り下がってしまうじゃないか」

「お前は平然と嫌味を言うよなあ。もしかして、嫌味と気づいていないのか?」

「いや、気づいている。ほとんど事実だから嫌味でもないが」

「ほーんと、嫌味なやつ!」

 あはははははっと豪快に笑った後で、静まり返ったクラスを見渡すナギ。

 不機嫌な顔で睨みを利かせているように見えるけど、本当はどうしてみんなが目をそらすのか不思議でたまらなく思っていること、あたしとネムルしか知らない。

「ナギ、笑顔の練習してみない?」

「……なんだよ、それ」

 黒い目がますます黒くなって、その内側に鋭い光が宿る。どう見ても、めちゃくちゃ怒っているように見えるけど、

「セツナ、難しいこと言うなよ。オレ、嬉しくないのに笑えないよ……」

 困っているのよね。実は。


 ナギがみんなを恐がらせなくなる道は、遠そうね……。


「ボクは今のままのナギが好きだよ。君の微々たる表情の変化は観察しがいがあるからな」

 ナギにも分けてあげたいほどのにこにこ顔でネムルは言った。よっぽど褒められたことが嬉しいらしく、次の授業が始まっても、リズミカルに足をぶらぶらさせていた。小さく鼻歌まで歌いながら、机の上にどんと乗せた水上自転車のエンジンをせっせと磨いている。


 ネムルさん、今、国語の時間なんですけど……。


 そんなあたしも人のことを言える立場じゃなかったりする。国語の教科書を壁にして、めくっているのは単語帳。一枚めくっては一喜一憂。正解率は三十パーセントくらいかな。

 こんな調子で受験までに英語が読めるようになるのかなぁ……軽く目眩を感じたのは、小さな異国の文字たちとの睨めっこに疲れただけではない気がする。

 ――ふぅ。

 気晴らしに窓の外を見ると、海の向こうに故郷が白く霞んでいた。


 海砦レムレス。

 あたしたちを守る砦――あるいは、隔離する檻。


 砦から街の高校に入学した子供はあたしとネムルとナギの三人だけだ。本当はもっとたくさんの同級生がいた。でも、大きくなるにつれてその数は減っていった。

 この二年間でたくさんの友達が出来たけれど、あたしたちの友情は少しも揺らがない。どんなに些細な用事だろうとネムルとナギの頼み事なら、学校の友達を振り捨ててでも優先する。そんな風にあたしたちは頑丈な友情で結ばれている。

 絶対に壊れることのない絆……というよりも、呪われた運命共同体だと口にしなくても分かってる。


 ……あと、どのくらい生きられるのかな。


 ぼんやりした頭がネガティブな方向へ傾いていくのを感じて、運命から目をそらすように海を見ると、観光客を乗せた遊覧船がゆっくりと灯台の周りを旋回しているところだった。

 レムレスの向こう側、水平線に近いところに小さな人工島が浮かんでいる。灯台はその島の端っこにそびえていて、クルーズのちょうどいい折り返し地点になっているのよね。


 ――しない。


 ……え?


 間近でささやかれたように、突然、声が降ってきた。

 海から目を離して教室を見回す。クラスメイトはノートを取ったり、黒板を見たり、机に伏せて居眠りしたりしている。黒板の前ではモモちゃん先生が古典文法の説明に忙しい。誰かがあたしに話しかけているわけじゃない。


 ――存在しない。


 また声が聞こえた。


 ――灯台は、存在しない。


 ……灯台?


 窓の外を見る。

 灯台が存在しないってどういうこと?

 海から突き出た角のように灯台はそこにある。レムレスができる前から、灯台はずっと存在していた。あたしの家から水上自転車で十分もかからない海の上に。


 ――そして、あなた。


 ……えっ、あたし?


 ――あなたも、存在を許されざる者。


 ……なによ、それ?


 ――生命いのちを持たぬ、紛い物よ。


「セツナ」

 ……あなたは、誰なの?

「セツナ、セツナ」

 ……誰? 誰? 誰?

「おーい、セツナー」

「だれー?」

「セツナー」

「誰なのー?」

「起きろってばー」

「いやー、起きなーい」

「しょうがないなー」

 ばしっ。

「いたっ!」

 頭のてっぺんに衝撃。顔を上げると、にやけたネムルと目が合った。

 左手には凶器の布製ペンケースが握られている。


 ……あたし、寝てた?


「授業中、ずっとな」この声はナギだ。気まずそうに目をそらしながらぼそっとつぶやく。ネムルはナギの隣に立って、笑いをこらえるのに必死の形相。

「おーしーえーてー、いやー、起きなーい……ぷっ、くくくくくっ……うわはははははっ! セツナ、すっごくおもしろかったぞ! 一体、どんな夢を見ていたんだ?」

「な、なんでもっと早く起こしてくれなかったのよっ!」

「オレ、何回も起こしたけど……」

 そう言って、怒ったような困ったような顔(もちろん、困った顔が正解)でナギが頭を掻く。

「セツナ、全然起きないんだもんな。モモちゃん先生も困り果てていたよ」

 周りのクラスメイトたちもくすくす笑いながらあたしを見ている。


 うううっ、今日は最悪の日だわ。

「頭隠して知り隠さず」、そんなことわざを無視する勢いで机に顔を突っ伏した。


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