かけがえもなく愛しい
ドアを開けるとコンクリートでできた壁から冷気が漂ってきた。部屋の真ん中に見えるのは作業台。その上に分解されたままのエンジンが煤にまみれて転がっている。灰色だらけの部屋の床には、地面に落ちてる石ころみたいにネジやバネといった機械部品がごろごろ。
それらを踏みつけないように、つま先立ちで階段を上る。
一階、二階、三階、四階……ネムルのいる最上階に辿り着く頃には息が切れていた。鉄でできた重い扉に「関係者以外立ち入り禁止」と注意書きが貼ってあるけれど、こいつの人生に思いきり関係しているあたしは
「こらーっ、いつまで寝てる気だぁっ!」
開けた瞬間、機械の温風が吹きつけた。
目の前に開かれたのは十三個のパソコンモニター。そのすべてが青空のスクリーンセーバーを映し出している。
まるでこの部屋が空に浮かんでいるみたい……。
唯一モニターが取り付けられていない窓辺からホンモノの青空が顔を出している。そこから降り注ぐ陽光に照らされ、すやすやと眠る女の子の長い睫毛が魚の背のように潤んでいた。
おしりを覆い隠すほど長い海色の髪。
夜に咲いた花のように真っ白な背中。
強く握ったら折れてしまいそうな、華奢な手足。
楠木ネムルは、あたしと同じ人間とは思えないくらい小さくて、この部屋にある機械製品と同じく人の手によって作り出された精巧な人形のようなのだ。
ネムルは桃色の唇を固く結んで、一生懸命に眠っている。
くすんくすん。
くすん、くすすん。
ヘンな、いびき。
「ネムル」と声を掛けると、うんうん唸りながら寝返りを打った。
これもいつものことだけど……ネムルは裸だ。
足下に皺だらけのパジャマが丸まっている。
「暑い夜は自然とやっちゃうのだよなぁ」
初めてネムルを起こしにいったとき、驚愕しているあたしの前で欠伸をしながらそう言った。
ネムルの寝相の悪さは筋金入り。何度注意しても治らない。というか、無意識の癖なので治しようがないみたい。もう慣れっこになっちゃったけど、ちょっとだけ――いや、かなり、この子の将来が心配かも……。
何度か肩を揺さぶったあと不機嫌な顔で目覚めたネムルは、這いつくばって伸びをした。眠い目をこすりながら、不思議そうにあたしを見る。
「セツナ、寝ぼけているのか?」
「はあ?」
「ここは商業区の
はあはあ、そう来ましたか。あたしは寝ぼけている、と。
夢と現実を履き違えて、あんたの家に遊びにきちゃった、と。
「ふざけるなぁ―――――――っ!」
「ふにゃぁっ!?」
半開きの目が大きく見開く。
「だっ、だってここはボクの家で、現在時刻は午前七時三十分で、君は不法侵入を犯している。これらの事実から導き出される答えは、君が夢遊病者であり個人的無意識の底に現出したボクの幻影をたどってここに来たということで――」
……ああ、相手にしている時間が勿体ないわ。
床に張り巡らされたコードをかき分け、皺だらけの制服を発掘する。
ネムルの制服はあたしより二回りも三回りも小さいSSサイズの特注品。着替えを終えた彼女は、早く大人になりたくてお姉ちゃんの制服をこっそり着てみた小学生みたいだ。
身体の小ささに伴って、ネムルは体力がとても少ない。
口先ばかり達者に働く、超虚弱体質。
気温の高いこの時期は学校へ通うのも一苦労らしく自然と足が向かなくなって、出席日数は崩壊寸前。
「楠木さんを更正させてくださぁ~い!」
しくしく泣きながら出席簿に「欠」をつけるモモちゃん先生を思い出した。ネムルの保護者と見なされているあたしとナギは、こっそりモモちゃん先生から出席状況を聞かせてもらった。
とにかく学校に来い。這ってでも来い。パソコンしたいなら背負って学校に来い。そんな風に口を酸っぱくして言っても生返事。
仕方なく、一学期が終わるまであたしが迎えにきてあげている。
うんしょ、うんしょ、と声を上げながら靴下をたくし上げると、ネムルは制服の上からひざ丈までの白衣を羽織った。
分厚い専門書の下敷きになっていた学生鞄を背負わせて、「曼荼羅ガレージ」を後にする。
腕時計を見る。
ただ今の時刻は七時四十五分。
海を渡るのにちょうど二十分掛かる。授業開始は八時二十分からだから、街の船着き場へ着いたら全力疾走しなくちゃいけない。気がかりなのは一時間目に体育が入っていること。
体育の先生は特に遅刻に厳しいし、ここは直接、更衣室へ向かった方が賢明かしら……。
頭の中であれこれ計画を立てていると、小さな呼吸がひゅうひゅうと胸のあたりを掠めた。
見ればネムルが、ほっぺたを真っ赤にして荒く息をついていた。
「セツナ、そんなに早く走るんじゃない」
「走るなって、ただの早歩きでしょ」
「ボクには全力疾走なんだよ! 息が苦しい! 喉が冷たい! 首が汗でじめじめするぅ!」
「これ以上遅れるとバレーボールに遅刻しちゃうわよ」
「バレー!? 全力疾走からのバレー!? ……なんて残酷な仕打ちなんだ。
「……なんであたしが悪者になってるの?」
そうこうしているうちに船着き場へ辿り着いた。ネムルの身体を持ち上げて、水上自転車の荷台に乗せる。波が上下するタイミングを見計らってあたしも運転席に乗り込んだ。ギアをturboに切り替えて、対岸目指して漕ぎ進む。
今日の海は珍しく穏やかだ。揺れも少ないし、向かい風も強くない。
背中にくっついたネムルも、くあぁ、と大きな欠伸をする。
「留年するのも悪くない」まったりとネムルは言った。
「留年すれば、ずっと高校生でいられる」
「やめてよ。あんたの場合、冗談に聞こえないんだから」
「高校二年生……人生でいちばん良い時期だよ」
「学校嫌いがよく言うわ」
「学校は、嫌いじゃない」
ネムルは小さくつぶやいた。
「確かに授業は五歳のころに覚えたことの復習ばかりで退屈極まりない。体育も嫌いだ。窮屈な制服、重たい教科書、規律ばかりの集団生活……それらを差し引いても、ボクは学校が好きだ。高校二年生が大好きだ。この場所には君がいる。ナギもいるし、ナギの妹のさりゅもいる。みんなと紡ぐ一瞬は、かけがえもなく愛しい」
「……」
振り返らなくとも、ネムルが微笑んでいるのが分かった。
緑色の目を細めて、明るい色の絵の具で描かれた、絵画の中の少女みたいに。
認めたくないけれど、ネムルは可愛い。黙っていれば――本当に口さえつぐんでくれれば――神様に特別に愛された女の子なのだと分かる。あたしもナギもこの笑顔にやられてしまって、文句を言いながらも、なんだかんだと世話を焼く。ものすごく頭が良いだけの、無力な少女の保護者でいる。
保護者――っていうか、守護者かな?
「と、とにかく留年はダメっ! 絶対ダメっ! あんたが後輩になったら毎日焼きそばパン買いに行かせるからね! 行き帰りに鞄だって持たせちゃうし、校舎裏でバスケットボール当てまくるし、顔はやめてボディーにしときなって……」
「イメージが古いな、セツナ」
「うううううううるさいっ!」
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