負の方向

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「全然、分からん」

 ナギが千三百年前に書かれた物語を見せてくる。「伊勢物語・芥川」。逃避行の果てに想い人を失ってしまう、悲しい恋の物語だ。

 ボクは読む。十行ほどの短い文章。思い浮かぶ様々な情景とともに、十歳のころに初読した思い出もよみがえる。学術書ばかりの父の書斎に点々と混じっていた古代の物語たち。大判の本で持ち運ぶのに苦労したっけ。


「古文ってってばかりだよな」

「どういうことだ?」

「ほら、書いてあるだろ。ありけり、行きけり、来けり、問いける……昔の人ってそんなにキックが好きだったのか?」

「……君は文法からやり直した方が良さそうだな」


 セツナの音読する数学の問題に答えながら、左手で英単語を書きつけ、右手で漢字を練習し、合間を縫ってナギのために五段活用のミニ講座を開いてやる。

 夏休みの宿題とは、なんと忙しないことか。

 ナギから連絡があったのは昨日の明け方。部屋に取り付けたランプが赤色に点滅した。徹夜明けのだるさに乗って無視してやろうと思ったが、いつまで経ってもランプは消えない。

 渋々、トランシーバーの電源を入れた。


「今、何時だと思っているんだ」

 ――朝の五時だけど?


 平然と答えが返ってくる。目覚めてから一時間は経っているであろう、はきはきした声。ナギは体育会系だ。彼の校友も早起きが大好きな元気者ばかり。体育会系とそうでない者の間にある時間差を少しは考えてほしい。

 電源を切りたい衝動を抑えつつ、なんとか言葉を紡ぐ。


「用件はなんだ。手短に話せ。どうぞ」

 ――ネムル、どこまで宿題進んでる?


 ナギが切り出すと同時に、宿題の存在を思い出した。学期末にモモコのやつから特別呼び出しを喰らって、宿題の重要性についてくどくど説明された。が、出さなければ進級できないという部分しか覚えていない。

 他のクラスメイトに比べて、ボクの宿題は特別量が多いらしい。学校をサボった分と、学校をサボった分の補講をサボった分が上乗せされているからだ。

 ありのままをナギに告げると、心配そうな声が返ってくる。


 ――間に合うのか? 夏休みも三週間切ったぞ。

「ナギの方はどうなんだ?」

 ――オレも全然やってない。

「人のことを言えないじゃないか」

 ――うん。だから一緒にやらないかと思って。明日は部活もバイトも休みなんだ。

「ふむ、よかろう」


 通学鞄を漁ってみると、底の方からぐしゃぐしゃになった紙の束が出てきた。分厚い。辞書のようだ。鈍器になりうる厚さだ。

 出題された問題はすべて解ける自信があるのに、紙に書き込まなければならないとなると大変に手間が掛かる。勉強というより肉体労働に近いものがある。

 奥の手だ。セツナに口述筆記こうじゅつひっきを頼もう。



 ……というわけで、ボクの斜め向かいでは急きょ呼び出しを喰らったセツナが答えを書き込んでいる。

「宿題を写させてくれって言わないだけ偉いけど、これもあたしが手を貸していることになるんじゃないかしら。でも、答えを考えているのはネムルだし、判断が難しいわね」

 ぶつぶつつぶやきながらも、忠実に問題を音読してくれる。

 ボクたちが座っているテーブルの下では、さりゅが寝転がってお絵かきをしている。


 その日は朝から大雨だった。昼を過ぎて益々強くなった。さりゅの絵の中だけ、真っ赤な太陽が輝き、青い海が広がっている。

 雨音に閉ざされた部屋で自然とみんな無口になる。

 沈黙を破るようにナギが言った。

「最後の夏休みくらい、自由にさせてほしいよな」


 最後の夏休み。


「あたしたち、来年は受験生だもんね」


 受験。


「セツナは看護系に進むんだっけ?」

「そのつもり。昔からの夢だったから」


 夢。


「ナギは推薦狙ってるんでしょ?」

「ああ。ライバルは多いけど負けないぜ。まずは秋の大会で勝ち抜いて――」


 ――ナギは足を怪我する。


「ナギは足を怪我する」

 口が喋った。意思に関係なく勝手に動いた。発言が常に思考にろされるボクにはあり得ないことだ。しかし、その言葉は不思議に実感をともなっている。

 頭をフル回転させて考える。

 思い出す。

「そうだ……ナギは足を怪我をするんだ。八月の中旬。もうすぐだ」

 考えれば考えるほど、まだ見ぬ未来が過ぎ去った過去のように見えてくる。夏の真ん中。蒸し暑い真夜中。三人の男に襲われて、ナギは負傷する。

 運命。宿命。変えられない。

「お前、何言ってんだ?」

 困惑したナギの声。

「オレ、どこも怪我してないよ」

「これからするんだ。それで、大会には出られない」

「……ネムル、言っていい冗談と悪い冗談があるんだぞ」

「冗談じゃない。事実だ。これは決定された運命だ」

「やめろ」

 暗い声に身体が震えた。切れ長の黒い目が鋭い光を放ちながら、まっすぐにボクのことを見つめていた。静かにナギは怒っていた。怒ったように見える顔が、今日は本当に怒っていた。

 ……恐い。

「しっ、信じてくれ! ボクは知ってるんだ! ナギは大怪我をして、選手ではいられなくなって、それで……」

「お前は変なやつだけど、変な嘘をつくやつだとは思わなかったよ」

 強い眼光に当てられて思わず目をそらすけれど、そらした目をどこに向ければ良いか分からず、またナギを見てしまう。

 ひどいことを言ってしまった。ボクのことを傷つけたくなるくらい、ひどくナギを傷つけてしまった。謝らなくちゃいけないのにからからに乾いた口からは何の言葉も出てこない。

「ネムルは寝ぼけているのよ。変な夢でも見たんでしょ」

 セツナが席を立って、ボクの傍にやってきた。膝をつき、小さい子供にするようにそっと手を握ってくれる。

 ネムル? と呼ぶ彼女の瞳に、ボクが映る。


 瞬間、視界を奪われた。

 閃光がほとばしり、飛躍した意識が頭の中で或る映像を描き出す。


 墓場で見たときと同じ、真っ白な空間に女がたたずんでいる。白衣のポケットに手を突っ込んで、ボクのことを見つめている。ボクと同じ緑の瞳……けれど、その眼差しは感情を失い、疲れ果てて静かだった。


 ――セツナは、いなくなってしまう。


 天啓てんけいのように、天罰のように、落ちてきた声に頭をガツンと殴られた。


 ――ボクのせいで、セツナは死ぬ。


 椅子から立ち上がろうとして、よろけた。床についた手がさりゅの描いた絵に触れた。赤のクレヨンでぐりぐりと塗りつぶされたお日様の下、丸い顔と四角い身体でできたボクたちが遊んでいる。絵の中の四人はにこにこしている。笑顔しかない。悲しみなんてどこにもない。

「ちょっと、大丈夫? あんたの顔、真っ青よ」

 額に手をあて熱を測られる。足元では今にも泣きだしそうなさりゅが、おろおろとボクたちを見回している。ナギは怒った顔をそむけ、頬杖をついている。


 ……言えない。

 これから悲しい未来がやってくるなんて。

 誰にも、言えない。


「か、帰る……」

 持ってきた鞄に無理やり宿題を詰め込んだ。セツナの制止の声を無視して、手早く帰り支度を済ませる。商業区まで送っていくという彼女の申し出はナギの静かな声に阻まれた。

「放っておけよ、こんなやつ」

「ちょっと、ナギ!」

「子供じゃないんだし、一人でも帰れるだろ」

「もう……仲直りしてよ、二人とも」

 ボクとナギとの間でうろたえる、セツナの顔がドアに隠れて見えなくなる。

 居住区は灰色に沈んでいた。まるで世界が生まれた日から雨しか降っていないみたいだ。

 傘の柄を握りしめ、人気ひとけのない坂道を下っていく。何も考えなくて良いように雨音に耳を澄ませ、水の流れる先を目で追う。

 ひたすら足を動かすうちに、レムレスの端へ出てしまった。落下防止の柵の向こうに、不透明で底知れぬ海が大波小波を繰り返している。

 柵を握りしめ、しゃがみ込む。

「セツナがいなくなってしまう……。どうしよう……。どうしよう……」

 震えた声で、つぶやく傍から答えは出ている。


 ボクにはどうすることもできない。


 ナギの家で聞こえたあの予言は真実だ。そう思わせる切実さを、あの声の響きに感じた。足を怪我するナギと同じく、これは運命。宿命。変えられない。


 ……ボクは、役立たずだ。


 すごく頭が良くたって、最強の武器を発明したって、好きな人を守れないなら意味がない。

 無力を悔やみ、友を失い、絶望の余生を過ごさなければならないのなら――それがボクにとっての「運命」なら、こんな人生なんてらない。

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