抜け出せない檻


          4


 目覚ましを止めたまま、しばらく眠り込んでいた。押し潰すように甘い眠気からオレを叩き起こしたのは、「部活」の二文字。

 妹を起こさないようにそっとベッドから下りる。体が重い。靴下を履くとき少しよろける。リビングのカーテンを開けるとまぶしい朝の光に打たれた。思わず顔をそむける。


 ……早起き、得意なはずなんだけどな。


 冷蔵庫から野菜と鶏肉を出して適当な炒めものを作る。量が多いのはさりゅの朝飯と昼飯、オレの朝飯と弁当を兼ねているからだ。昨夜眠気と戦いながら準備しておいた白飯がそろそろ炊ける。品数は少ないがこれで夕方まで持つだろう。

 寝坊した割に時間が余ったのでおまけの味噌汁を作っていたところ、天井についたランプが点滅した。


 ランプの光は黄色……ってことはセツナか。


 夏休みが始まって二週間、セツナとは口をきいていない。

 いや、口をきかなくなったのは初めて探偵に会った日のことだから二週間よりもっと前だ。

 セツナに怪しい人間を近づけたくなくて、忠告に行ったらこう言われた。


 ――そいつは正義に見せかけたエゴだな。かっこいいことを言って、君は好きな子を独り占めしたいだけだ。


 オレは、図星を突かれたんだと思う。


 側にいることが当たり前すぎて、考えたこともなかったけれど……でも……。

 あの日からセツナを気まずく感じるのは、きっと、そういうことなんだ。


 意を決してトランシーバーのスイッチを入れる。周波数を調節するとわずかなノイズを残してセツナの声がはっきり聞こえるようになった。


 ――こちらセツナ。ナギ、聞こえたら応答して。どうぞ。

「聞こえてるよ。どうぞ」

 ――良かった……。


 電波に変換された彼女の声。ノイズにくぐもる、安堵の吐息。

 オレがセツナを避け続けていたことに、もちろん彼女も気づいている。でも、その理由を知らない。想像すらしていないだろう。言い逃れはできない。もちろん、本当のことなんて言えるわけがない。

 オレたちの間にでき上がってしまった壁を、見て見ぬふりをして、何事もないような声で。

「それで、何か用か?」

 ごくりと唾を飲み込んで、セツナが言う。


 ――ナギは朝練があると思って、早めに連絡しておこうと思って……今、忙しい? どうぞ。

「いや、忙しくは……」


 台所へ目をやってハッとする。

 やべっ、味噌汁、沸騰してる!

 火を消して、慌てておたまでかきまぜる……しょっぱい。


「忙しくないよ。どうぞ」

 ――声が悲しげだけど、何かあった? とにかく本題に入るわね。あたし、今日は〝空中図書館〟で勉強する予定なんだけど、さりゅを連れていっても良い?

「別に良いけど、勉強の邪魔にならないか?」

 ――大丈夫。さりゅは図書館にいるときすごく静かなの。それじゃ、十時に迎えに行くね。

「ありがとう。あいつの面倒を見てくれて助かるよ」

 ――お夕飯までには帰ってくるから。ナギも部活、頑張ってね。通信、おしまい。


 プツン、とセツナの声が切れても、しばらくの間電源を切らずにいた。


 上手くできたか? 

 気まずくならずに、会話、できたのか?


 受話器からは波音のように儚いノイズが聞こえるだけ。誰にも分からない。永遠に解けない謎ができてしまった。

 トランシーバーを手放すと、掌にじんわりと汗をかいていた。



 セツナの提案をさりゅに話した後で家を出た。

 心臓破りの坂を上って、陸上部の集合場所へ向かう。船着き場から走っている間は何ともなかったのに、グラウンドに入ってすぐ額に冷たさを感じた。

異変に気づいたまさにその瞬間、両脚から力が抜けるて受け身を取る間もなく倒れた。


 身体が、動かない。


 じっとりと嫌な汗が額から吹き出した。

 周りにいた部員が一人、また一人とオレの元に集まってくる。例の三人組は揃いも揃って口をあんぐり開けながらオレを見ていた。

「〝星屑の病〟だ……」

 ふいに一人がつぶやいた。

あとの二人が慌てて口をふさぐが、一度吐いた言葉は元に戻らない。部員たちの間にどよめきが広がっていく。


 ふ、ふざけんなっ! 何も知らないくせに、勝手なこと言うな!

 「星屑の病」なわけないだろ!

 こんなに生易しいわけ、ないだろっ!


 喉元まで出かかった怒りを呑み込む。今はキレている場合じゃない。立ち上がることに意識を集中しなければ……。

 しかし、なかなか上手くいかない。力を入れれば入れるほど視界は紫に霞が掛かる。グラウンドの人影はぴくりとも動かない。

誰もが気味の悪い石像のように硬直している、その輪の外から足音が聞こえた。身軽に地面を蹴り上げて、オレの元へやってくる。

 間近で足音が止んですぐ、聞き覚えのある声が落ちてきた。


「ナギ、大丈夫か?」


 隣のレーンで何度も聞いた、それは高瀬川の声だった。

 高瀬川はオレの腕を首に回すとゆっくりと立ち上がった。不思議なことに肩を借りると、紫の視界も、冷たい額も、言葉で説明できない気持ち悪さも嘘のように消えた。

 さっと腕を上げて、高瀬川から距離を取る。

「だ、大丈夫だから……」

 その声は小さく掠れて、自分のものじゃないみたいだ。


 周囲を見回すと、何十もの瞳にぶつかる。皆、オレを見ている。ある者は心配そうに、ある者は興味深げに、ある者は「終わりの恐怖」に怯えて。

 視線が糸のように絡みつく。糸はやがて檻となって、オレを――普通の人間とは違うオレを、閉じ込める。

「星屑の病」とラベルの貼られたその中に。

「見世物じゃない」服についた砂を払いながらオレは言った。

「ただの貧血だ。〝星屑の病〟はこんな症状じゃない」

「それでも、休んだ方が良いのは確かだよ」

 高瀬川の静かな声。

「自分の身体のコンディションを見極めるのがアスリートだ」

「アスリート……」口に出しても馴染まない言葉。道に迷ったときに案内板を見るのと同じ気持ちで高瀬川を見つめる……くそっ、何をすがっているんだオレは。

高瀬川は目的地じゃない。こいつは圏外に追いやらなくちゃいけない相手。

 敵だ。


「保健室まで連れて行くよ」

「ちょっと転んだけだから」

「転んだんじゃない。倒れたんだよ。そんな状態で身体を動かすのは危険だ」

 整った顔を険しくしながら、高瀬川は食い下がる。


「肩、掴まりなよ。ほら」

「大丈夫だって言ってるだろ!」


 どうして情けを掛けるんだ? オレたちは敵同士だろ? 同じ組で競争して、一勝一敗が互いに続いて、追い抜かれて追い越して……そして最後は、いつもお前の勝ちだった。


 これ以上、引き離されてたまるかよ。


「平塚が来る前にウォーミングアップ、しないと……」

「ナギ!」

 高瀬川の声を振り切って、グラウンドへ出ていく。


 誰よりも速く! もっと速く!


 地面を蹴って、向かい風を身に浴びて……今度こそオレは気を失った。

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