至福の時間


 ぱくっ。

「ああ~……」

 ぱくぱくっ。

「ああああ~……」


 幸せだ。至福の時間だ。目の前には卵を六個使用した、特大サイズの卵焼き。砂糖たっぷり、ミルクは少し。隠し味に醤油とみりんをちょっとだけ入れる。

 それだけでこの世でいちばん美味なる食べものができてしまうとは魔法のようだ。

 ……ま、ボクには作れないのだが。


「卵焼きばかり食い続けてよく飽きないな」

 食卓の向かいでは探偵がげんなり顔でボクを見ている。疎ましいが、卵焼きを作ってくれた手前、無下にもできない。

「明日も卵焼きでいいぞ。弁当にもたくさん卵焼きを詰めてくれ」

「明日の弁当はひじきときんぴらと十穀米だよ。水筒に青汁も入れてやるから持ってけよ」

 ごふっ。卵焼きが喉に詰まる。

「い、嫌だっ。苦いのは嫌だっ!」

「自分じゃ作れないくせに文句言うな。だいたい俺が来るまで何を食べて生きてきたわけ?」

「世の中には手軽に栄養を摂取せっしゅできる魔法の粉がたくさんあるのだ。それを全部水に溶かして……」

「あー聞きたくない、聞きたくない」

 耳を塞がれた。自分から尋ねておいて、失礼なやつだ。



 街から突然やってきた「探偵」と名乗る男と暮らし始めてどれくらい経つだろう。レムレスや街の住人たちから日常的な依頼を受けつつ、「曼荼羅ガレージ」炊事班として実によく働いてくれているが、彼の素性は謎に包まれている。

「探偵よ、君はどうしてここにいる? ボクに美味しい卵焼きを作ることが目的ではあるまい」

「そうなんだよ。お前んちで卵焼きを焼いてる場合じゃないのは確かなんだけど……」

釈然しゃくぜんとしないな。君の名前は何というんだ?」

「俺か? 俺の名前はナ……」

「な?」

「……あ、あれ? 何だっけ?」

 ボクに向かってあははははと笑われても困る。


 探偵はひとしきり笑いで取り繕ったあと、ひどく真面目な顔で考え込んでいたが、何も言わないところを見るに自分の名前を忘れてしまったようだ。おかしいな、と言いながら首を捻る。その姿が少し不憫だったので、心の中で「卵焼きマン」と名前を付けてあげる。

 ゴホンと咳ばらいをして、探偵は気を取り直す。

「そういえば、お前宛てに伝言があるんだった」

「伝言?」

「〝最後の夏休みを楽しんでください〟とさ」


 ――最後の夏休みを楽しんでください――


「一体、誰から伝言を受けたんだ、卵焼きマン?」

「それが思い出せないんだよな……今、変な名前で呼ばなかった?」

「送り主不明の伝言。それに〝最後の〟夏休みとはどういう意味だろう。ボクは高校二年生だ。夏休みなら来年もあるはずなのに」

「来年は受験生だろ。夏休みなんてあってないようなものじゃないか」

「むっ、君まで受験のことを言い始めたか! そんなに受験が大事なら、君が受験をすればいいんだ!」

「むちゃくちゃなこと言わないでくれよ。受験したくなきゃしなきゃ良いだろ。将来のこと、何も考えてないわけ?」

 いきなり問われて、言いよどむ。


 将来のこと、何も考えていない。

 強いて言うなら、ボクの夢は現状維持だ。高校二年生。ずっとこのままでいたい。森羅万象の摂理に逆らっていることは分かっている。非現実的だ。科学的でも論理的でもない。

 それでも、ボクは変わらずにいたい。

 何も変わらない日常の中でずっと友達と遊んでいたい。

 そう願ってはダメなのだろうか。

 変わらなければ、いけないのだろうか。

 何もしなくとも年老いて、行きつく果てはみんな同じ場所なのに……。


「目の前の卵焼きが美味しければ、それで良いと思わないかね?」

 残ったひとかけらを口に含む。卵焼きは最後まで甘い。卵焼きをたくさん摂取したボクもきっと甘くなっている。それだけでボクには十分すぎるくらい十分な変化だ。


「おえっ、俺の方が胃もたれしてきた。今日は早く寝よう……」

 探偵はげんなり顔でつぶやいた。


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