儚き生命はみんなきれいだ
ナギと一言も言葉を交わさないまま、学期末テストが終わってしまった。
話をしようと近づくと、陸上部仕込みの俊足であっという間にいなくなる。視線が合うと
「思春期をこじらせているだけだ。放っておけ」
海の上を走るアクアバギーを遠目に見ながらネムルは言った。
「夏休みが明ける頃には、何事もなくなっているよ」
「そうかなぁ……」
「元気を出せ、セツナ」
うつむくあたしの顔の前に色とりどりの花が差し向けられる。
柔軟剤もびっくりの、フローラルな香り。
眠たげな目を細めてネムルが微笑む。
「君にはボクがいるじゃないか」
あと一日休んだら留年というギリギリのところで一学期を乗り越えたネムルは、モモちゃん先生から表彰された。普通の生徒と何ら変わないことをしただけなのに――むしろようやく同じラインに立ったというのに――川でおぼれた子供でも助けたかのような褒められぶりだ。
向日葵を中心とした花束は、体育館のステージに飾ってあったものをくすねてきたらしい。
「モモコ、元の場所に戻してきなさい」
「ええっ? 頑張った楠木さんのために、体を張って盗んできたのに!?」
「生徒に
「でもでも、いったん盗んだものを元に戻すのは、とーっても難しいんですよぅ。さっそく教頭先生が花束泥棒を探し始めているんだもん。このことがバレたら、先生はこっぴどく叱られてしまいます!」
「……」
「どうか受け取って楠木さん! 頑張った自分を誉めてあげて! そして先生を助けて!」
……というわけで、ネムルはいわくつきの花束を受け取るハメになったのだった。
「教え子を
花束の重心が傾く方へ行ったり来たりしながら、ネムルはぶつぶつ文句を言ってる。「まあまあ」となだめながら、ふと空を見上げると、大きな入道雲ができていた。
明日から、夏休みかあ。
「ネムルは探偵さんとどこかへ出掛けたりしないの?」
「そんな暇はないね。機械いじりをしつつ、〝灯台祭〟の準備をするのに精いっぱいだ」
そういえば、ネムルが「灯台祭」の実行委員長に選ばれたって、ナギが言っていたような……。
「あんたに委員長なんて務まるの?」
「実際はただの名義貸しだよ。女子高生が地域祭のリーダーになるというだけで、話題性があるだろう。指揮を執っているのは職人組合の連中。年々増えゆく観光客へ、アピール戦略に打って出ようという魂胆だ」
「そこまで知ってて、良くオーケーしたわね」
「食えない話ではないからな。〝曼荼羅ガレージ〟の知名度アップを考えると」
利用されつつ、利用する。
女子高生と言えども、商業区の商売人……たくましいわね。
「ところで、あのおっさんが君に会いたがっていたぞ」
「ええー……」
「ものすごーく嫌そうな顔だな」
「どうして探偵さんはあたしにばかり関わってくるのかな」
「
「気持ち悪い言い方をしないでよ。あんた恋人でしょ。制御しなさいよ」
「恋人? 何を言っているんだ、君は」
「えっ、違うの?」
「違うに決まっているだろ」
「じゃあ、何なのよ? あんたたちは」
ネムルは空を見上げた。
首元にぶら下がったネックレスが風に吹かれてカタカタ鳴る。
「ボクたちは犬だ」とネムルは言った。
「美しい骨を奪い合う、薄汚い野良犬どもだよ」
「また意味分かんないことを……」
「だって、本当のことだもん」
やがて船着き場が見えてきた。
行きに来たときと同じようにネムルの体を持ち上げて、自転車の荷台に座らせる。
すると、瞬く間に後輪がぶくぶくと沈み始めた。
海の上に住んでいながらカナヅチのネムルは「ひゃっ」と声をあげて、両足を持ち上げた。
猫のように素早い仕草と反対に、自転車の前輪はいななく馬のように宙に浮いている。
「沈むっ! 沈むぞ、セツナ!」
「そんなこと言われても漕げないわ。荷台が重すぎるのよ」
「なんとかしてくれ!」
「花を少しずつ捨ててみて。ちょっと勿体ないけれど」
あたしと背中合わせに座り直すと、ネムルは手にしていた花束を少し捨てた。後輪が浮かび上がってくる。
タイミングを見計らって、そっと漕ぎだす。
車体が元に戻ると、ネムルはほうっと溜息を吐いた。
「……きれいだな」
「うん?」
「花がたくさん、流れていった」
「そうね」
「儚き生命はみんなきれいだ」
「うん」
「……セツナ」
ネムルは体をそらすと、仰向けにあたしを見た。
「君の夢は看護師になることだったな」
その手には、一輪だけ残った向日葵。
「ボクの夢を教えてあげる。ボクの夢――それは〝いつまでも変わらないこと〟だ。高校二年生。ボクたちはずっと高校生のまま、何年も何年も変わらない日々を過ごし続ける……」
ネムルは天使のように微笑んでいた。美しい午後に緑の目がきらきら光っている。
「この願いが叶ったら、君の夢は
「……」
何も、言えない。
海の中へ転がり落ちる、鈴の音の笑いを聞いているだけ。
……ネムル。
あたし、ときどき恐くなる。
英知を秘めたその瞳が、森羅万象を知り尽くしているようで。
神様みたいな、あなたが、恐いの。
レムレスが間近に迫ったとき、背中にずっしりと重みが掛かった。
くすん、くすすん、といびきが聞こえ、気がつけばネムルは眠っていた。
手から落ちた最後の向日葵が、自転車が作るささやかな航跡の上をくるくる回りながら流れていき、あっという間に見えなくなった。
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