第三章 海砦レムレス

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 雨が降っていた。泥のにおいがする、嫌な雨だ。


 マホガニーの硬い机。その上に黒電話が置いてある。俺の事務所の固定電話だ。隣に携帯電話が五台、トランシーバーが二台、近所の子供を使い走りにして、やりとりしている暗号文書が五、六通。

 それでも、何の手掛かりも掴めない。

 携帯電話の一台が大きな音を立てて鳴る。情報屋の一人からだ。


 ――マサキ、俺の方はからきしだ。どの筋に当たっても知らないって。


 もう一台、電話が鳴る。この地帯を取り仕切るマフィア専用の連絡網。


 ――安心しな、兄ちゃん。うちの若ぇもんの仕業じゃねえ。


 まさかとは思うが、過去のいざこざが原因か?

 受話器を取り上げて、甘い記憶とともに葬っていた昔の女の子たちの番号に掛ける……が、これもスカだ。


 ――ごめんね、マサキ。力になれそうにないわ。どうか事態が好転しますように。


 最後の女からそんな風にお祈りされると、いよいよ思い描いていた悪夢が現実味を増してくる。

 机に伏して、頭を抱える。

 これで、二日。

 ありとあらゆるツテを頼って情報を集めているが、何の成果も得られない。俺のところへ依頼に来るやつらはこんな不安を抱えているのか。頭がおかしくなりそうだった。


 あいつにもしものことがあったら、俺はもう、生きていけない。


 もどかしさでいっぱいのところへ、ドアの開く音がした。カランコロン、とカウベルが鳴る。

 いつもなら大歓迎なこの音も、今日はただ疎ましい。

「臨時休業だ。外の張り紙に書いてあったろ」

 電話が鳴った。すぐさま取り上げ、そして気の滅入る返事を聞く。立て続けに、何度も、何度も。

「残念だが」「こっちはスカだ」「お役に立てなくて」――。

「ありがとう。少しでも手掛かりを見つけたらまた電話してくれ」

 ひとしきり応対を追えて椅子の背にもたれかかる。雨音の続く部屋の隅に人影が見える。ベルを鳴らした依頼人は帰らない。フードのついた真っ黒なレインコートを被っていて、顔は良く見えないが、背丈や体つきから女のようだった。

 俺は頭を掻きながら、玄関のドアを開ける。

「お引き取り願いたい」

「どうして?」

 まだ若い。少女の声だ。探し物は行方不明のペットか恋人か。今はそれどころじゃない。

「私の依頼、聞いてくれないの?」

「別の事務所を当たってくれ」

「あなたしかいないのよ」

 なんだ、こいつ。しつこいな。

「悪いけれど、立て込んでいるんだ。力になれそうにない」

「私はあなたの力になれると思うけど」

「……なに?」


 雨は強さを増していた。ほとんど土砂降りに近かった。雷鳴が轟き、風が窓を叩く。

 俺はドアを閉めた。少々、乱暴に。

「俺をからかっているのか?」

「もちろん、違うわ」

「……何か、知っているのか?」


 フードから見え隠れする、整った唇が微笑んだ。


 レインコートの女は一歩退いて俺から距離を保つと、そっとフードを取った。

 閃光が窓の外をほとばしった。一面が白く輝いて元に戻ると、その輝きを吸収したかのように白い髪が現れた。それから目。海のように真っ青な瞳が俺を捉える。


 いつの間にか後ずさっていたらしい。腰に机が当たった。後ろ向きのまま手探りで机の縁を握る。手が震えていた。何の言葉も出てこなかった。あいつが行方不明になっていることさえ、忘れた。

 唾を飲み込む。シャツの上から心臓の部分をぎゅっと握る。動悸が激しい。


「嘘だろ。こんなこと、あるわけない」

「嘘のようで、本当で、けれども、嘘よ」


 彼女は微笑んだ。氷のように冷たい微笑み――それでも、懐古かいこせずにはいられない、その顔で。


 お前は、誰だ?


 俺の問いに、白い髪の少女はこう答えた。

「私は悠久ユーク。永遠の、記憶装置」



「ユーク……」

 俺の声は震えていた。言っている傍から自分でも分かった。白昼夢はくちゅうむを疑ったけれど、いつまで経っても女の姿は消えなかった。

 とりあえず椅子を勧めた。ユークはレインコートの下にデザインの凝った黒いドレスを着ていた。ふわりと広がるスカートの裾を軽くつまむと、優雅ともいえる動作で腰かける。


 青い視線は忙しなく事務所のあらゆる場所へ降り注いだ。壁に貼られた英字のポスター、牛皮のソファ、壁際に立てかけられたビールの看板、壊れたジュークボックス、玄関脇のコート掛けに、机の上の夕刊。

目に映したものの上からラベルを張っていくような、丁寧な観察の仕方だった。

 ラベルの名前は大方こんなところだろうか。


『ベイサイド探偵事務所・ガラクタ』


 突然、針で突いたような頭痛がした。

 痛みの中へ入り混じる、雨。ノイズ。静寂。行方不明者。死者。


「その変装を解いてくれ」俺は言った。「目障りだ」付け加えた。


 ユークは視線を俺に戻して、記憶に残るあの声で発声する。

「残念だけど、フィジカル・ヴィークルはこの型しかないの」

「フィジカル……なんだって?」

「フィジカル・ヴィークル。私に適合するように作られた、人体そっくりの人形。私には彼女の形がいちばん操作しやすいの。ここが、同じだから」

つややかな白髪をかき分けて、彼女は自分のこめかみを人差し指で突いた。


血の気のない真っ白な指の示すもの――それは脳だ。


 身を乗り出して、隅々まで注視する。ユークの大きな目が、長い睫毛の下でぱちぱちと瞬きした。あまりにも自然過ぎて、不自然な動作。

 瞬き、呼吸、胸の上下。

 それらはすべて作り物の肉体を隠す、カモフラージュに過ぎないのか。

 ユークが手を差し伸べた。数秒経って、握手を求めていることに気がついた。

熱可塑性ねつかそせいエラストマーよ」

 手を握った。

体温の薄い、柔らかな死体。死後硬直する前の。

 そんな感触。

「ユーク……君は一体何者なんだ」

「〝私〟? 〝私〟は培養液ばいようえきに浮かんだ脳。その脳はセツナのもの。セツナの脳が動かす熱可塑性エラストマーの肉体、それが〝私〟」

「君の脳が、彼女のものだって?」

 ユークは頷いた。

「彼女が死んですぐ、冷凍保存したの。脳細胞が完全に死滅する前に。その一年後にフィジカル・ヴィークルができ上がって、脳と模造身体をくっつけた。何十回も検証や仮実験を行った後でね。拒否反応は少なく、実験は成功した。ただ、セツナの人格や記憶は復活しなかった。新たに人格を持った私は悠久ユークと名付けられた」


 酸いも甘いも噛み分けたつもりでいたが、世の中はまだ俺の知らないことで満ち満ちているようだ。純粋なままとどめておきたい記憶ほど、残酷な真実に裏付けされていたりして。


「気が狂いそうだよ、ユーク」

「狂ってもらっちゃ困るわ。あなたには楠木博士を助けてもらわないと」


 ユークは作り物のまばゆい瞳で俺を見つめた。

「知らないとは言わせない」

「知ってるよ……楠木ネムル。〝MARK-Sマークス〟の重鎮だ」


「MARK-S」は新薬を開発する大手製薬会社の名前。中心部にそびえる奇抜な形の巨大なビルはこの街のシンボルと化している。政治、経済、情報、科学、あらゆる世界にパイプを持ち、それは国外や裏社会にまで及ぶ。

 界隈に住む探偵や何でも屋は「MARK-S」と関わりがないことを前提に仕事を受ける。

 いくら金を積まれても生命いのちを失えば元も子もないからだ。


「水臭いわね」ユークが憤慨したように言った。

「まあいいわ。その〝MARK-Sの楠木ネムル博士〟よ。最も、三ヶ月前に組織を抜け出しているけれど」

「あの集団の幹部が組を抜けてよく殺されずに済んだものだな」

「ずいぶん危ない橋を渡ったのよ。死線をかいくぐる兵士みたいな生活をしながらようやく縁を切ることができたの――もう済んだことはどうでも良いのよ。あなたが博士を助け出してくれさえすれば」

「まだ引き受けるとは言ってない」

「引き受けるのよ」

 ユークの声は氷のように冷たかった。


「あなたの大事なものを、盗んだのは私よ」

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