君の痛みを知りたいんだ
来客を知らせるベルが響き、後ろ背に「いらっしゃいませ」と声をかける。ちょうどコーヒーマシンの掃除をしていたところだったので気づかなかった――彼女がやってきたことに。
「こんばんは」
ぎくりとして振り返る。
セツナがいた。
カウンターの向こう側で興味津々にオレの仕事を眺めていた。
昼に会ったときと違う、セツナは丈の長い黒地のTシャツに少しよれた迷彩柄のミニスカートを履いていた。
小脇に財布を携え、首にピンク色のタオルを掛けている。白色のショートカットが濡れて、髪の毛の一本一本が細い。風呂上がりに適当な服をひっかけて、近所のコンビニへ買い物に来たのだと、誰が見ても分かる格好。
その適当な感じが、ドキドキするくらい、可愛かった。
「久しぶり」
「……」
「邪魔したかな?」
「……」
「ナギ?」
「だ、大丈夫。オレはどうにもなってない」
「?」
「あっ、いや、その……邪魔なんかじゃない」
「……良かった」
緊張に張り詰めた笑顔を緩めて、セツナは心の底から笑った。オレはこめかみに浮いた汗を拭うフリをして、こっそり自分の耳を触る……うん、赤くなってない。
「ナギ、本当に働いているんだね」
「ただのバイトだよ。それも夏休み限定の」
「それでも自分でお金を稼ぐってすごいことよ。ナギは大人みたいだね」
セツナが青い目を細める。にこにこしているのに、どこか寂しげだ。
セツナは時々寂しそうな顔をする。中学の頃から、ずっとそうだ。
夕暮れ時の空を静かに見上げる彼女を見かけるたび、一度で良いから人の心が読めたら良いのにとオレは思う。痛みの種類が分かったら、助けてあげられる自信があるのに。
すごく、すごく、もどかしい。
その傷を無視して、話題を変えなきゃいけないことが。
「ところで、セツナ。さっき船着き場で話しをしたときに」
「船着き場?」
オレの言葉を遮って、セツナは首をかしげた。
「あたし、船着き場なんて行ってないわよ」
えっ……。
「夕方、街の船着き場でオレと話しをしただろ。忘れたのか?」
「……」
なぜか、セツナの顔が一瞬曇った。
それでもすぐ元に戻って、
「今日はネムルの家の大掃除を手伝っていたの。街へも船着き場へも行ってない」
きっぱりと断言する。
なるほど。トランシーバーに応答がなかったのは、ネムルの家にいたからか。
しかし街へ行っていないとすると、オレが話をしていたのはセツナじゃなかったのか?
それなら、あの女の子は誰だ?
そして、オレが灯台にいたのはなぜだ?
……。
……。
……さっぱり分からん。
気味が悪いが、この謎は解けないままになりそうだ。
「今夜はネムルの家にお泊まりする予定」
とりなすように、セツナはいつもより明るい声で言った。
「徹夜で勉強するんだ。あの子ったら、夏休みの宿題全然やってないのよ。信じられる?」
「信じられないな。夏休みも二週間を切ったのに、手をつけてないやつがいるなんて」
そういうオレも信じられないやつの一人なんだが黙っておく。
不可思議な出来事の多い一日だったが、セツナと普通に会話ができるようになったんだ。ひとまず良しとしておこう。「無理すんなよ」とねぎらいの言葉で締めくくろうとして、大事なことを思い出す。
「曼荼羅ガレージ」にお泊り……ってことは、あいつもいるんじゃないか?
頭の中に、狼の扮装をした探偵が現れて、指鉄砲を撃ってくる。
〝お前の周り、いい女ばっかりだな!〟
オレはすぐさまイメージの中の探偵をぐしゃぐしゃっとまるめてゴミ箱へ捨てる。
ごほん。
咳ばらいをして、落ち着いて、慎重に。
「セツナ。探偵はどうするんだ?」
「マサキさん?」
「マサキ?」
……ああ、そんな名前だったな、あいつ。
「マサキさんが、どうかした?」
参ったな。そこんところ、聞いてくるか。
この手の話になるとセツナは少し――いや、かなり――鈍くなる。純真というか、危険意識が薄いというか。
今だって頭に「?」マークを浮かべながら従順に話の続きを待っている。
落ち着け、オレ。
焦るな、オレ。
気まずくならないように言葉を選びつつ、遠回しに気づかせるんだ。ここはひとつ、クールにいこう。
オレはポケットから財布を取り出して、三百六十円をレジに入れる。メンテナンスしたてのコーヒーマシンでアイスコーヒーを二つ作り、片方をセツナに渡す。
「わあ、ありがとう!」
セツナがにこにこしながらコーヒーに口をつける。
オレも飲んでみるが、まずい。
コーヒーの味、いつまで経っても好きになれないな……。
「あのさ、探偵がどこに住んでるか知ってる?」
「もちろん、〝曼荼羅ガレージ〟よ。ナギも知ってるでしょ?」
知ってるよ! 知ってるから聞いてるんだろ!
「探偵は男だよな?」
「男の変装をしているんじゃなければね」
「探偵は女の子が好きだよな?」
「男の子が好きという噂は聞かないわね」
「探偵はヘンタイだよな?」
「あはははは、もう慣れたけどね」
「……おいっ!」
カウンターをどんっと叩く。オレのコーヒーが倒れて中身が広がった。ストローに口をつけたまま、びっくりするセツナ。
オレの方がびっくりだよ!
「これだけ言っても気づかないのか、お前はっ!」
「な、なんのこと?」
「無防備! 無防備なんだよ! 男のいる家に泊まるなよ。しかも、ヘンタイ探偵の住んでいる家に!」
「えぇーっ?」
「えぇーっ? じゃないよ! ちょっとは警戒しろよ! ヘンタイに慣れてんじゃねぇ!」
「で、でも、探偵さん、夜は家にいないからお気軽にどうぞって……」
「気になるんだよ! 気になって仕方ないんだよ、こっちはっ! あいつみたいに軽いノリじゃない! オレは本気でセツナのことが好きなんだからっ、そのっ……余計な心配を……かけさせないでくれと……いうか……えっ、探偵が家にいない?」
嘘、だろ?
頷く代わりにうつむくセツナ。お腹の前で組んだ手をもじもじさせている。
しばらく間があって、やがて小さな声で訊いてきた。
「……今の、どういうこと?」
「えっ!」
オレ、何言ったっけ!?
「今の話、本当なの?」
セツナの訊く〝本当〟の内容を必死で思い出そうとするが、考える傍から頭が真っ白になっていく。好き嫌いに関わる、ものすごくまずいことを口走ったことだけは覚えているが、肝心の中身が思い出せない。というより、オレの脳が嫌な記憶を思い出させないようにしていると言った方が正しい。
これはまずい。まず過ぎる。沈黙を破る言葉すら思いつかない。逃げたい。セツナが永遠に追いつけない地の果てまで走って逃げてしまいたい。
……だ、ダメだっ! その考え自体が現実逃避だ。
逃げるんじゃなくて、避けるんじゃなくて。
向き合うんだ、今度こそ。
行くしか、ない。
「セツナ……」
ごくりと唾を飲みこんで名前を呼ぶ。オレがセツナの名前を呼ぶのとほぼ同時に、店の窓ガラスが割れた。
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