最終定理

 船が居住区へ到着する。桟橋に荷物を並べていた人たちが、船の止まる気配を知って慌てて引き返していく。

 居住区の出店でみせは主に中古品を売っていた。着なくなった洋服や「御中元」ののしがついたままの洗剤など、商業区が観光客相手の商売であるのに対し、こちらは住民たちで行う地域イベントといった感じでほのぼのとしている。

 セツナはキッチン用品を買い替えたいらしく、金物を見かけるたびに頭を振って誘惑を振り払っていたが、ある店の前でついに足を止めた。

 彼女の視線の先には色も鮮やかな外国の食器が並んでいる。

「ご、五分だけ……」

「いいよ」

 食事に興味のないボクは、食器にも興味を持てない。手持無沙汰てもちぶさたに頭の後ろで腕を組んで、行き交う人々を観察した。人々は器用にボクを避けたが、それでもセツナとの間に壁ができた。打ち上げ開始を目前に、一気に人波が押し寄せたせいだろう。


 店へ戻ろうとしたところへ、

「ネムル」

 ナギに呼び止められた。


 人の流れを二つに割って、ナギは坂道の真ん中に立っていた。ナギの腕に抱かれたさりゅが、後ろ向きに兄の首筋にしがみついている。

 駆け寄って亜麻色の髪を撫でる。

「さりゅ……体調が悪いと聞いていたが」

「外に出るってきかなくてさ」ナギは軽くジャンプして妹を抱え直した。

「ネムルちゃんに会いたいって愚図ぐずるんだ。仕方ないから家の前でお前が来るのを待っていたの。こんなに強情なさりゅも珍しいよな」

 ほら、とナギはさりゅに向かって話しかけた。

「ネムルちゃんだぞ」

 ナギの首にしがみついていたさりゅは、そっと顔を上げた。

「ネムルちゃん」

 小さな手が伸びる。

 ナギからさりゅを受け取る。その細い首からは小さな子供が放つ甘いにおいがした。さりゅはしくしくと悲しい声で泣いた。不思議なことに、ちゃんと分かっているようだった。大人にはない繊細さで感じ取っているのだろうか。


 ボクたちの間に流れる、さよならの気配を。


「さりゅは優しいね。ボクのために泣いてくれるなんて」

 小さな身体をぎゅっと抱きしめる。

「ボクたちは気の合う友達だった。一緒に本を読んだことも、夏の午後に同じ夢を見たことも忘れがたく素敵な思い出だ。ボクはその思い出を持っていく。さりゅの代わりに抱っこしていくから……だから君はボクのことなんて忘れてくれて構わないんだよ」

「何言ってんだ、ネムル?」

 ナギが首を傾げる。その身体が赤い霧の中へ霞んでいく。目を閉じる。さりゅの身体が軽くなる。茶色の瞳、ふわふわの亜麻色の髪、柔らかな丸い身体。全部、全部、消えていく。

 両腕は、いなくなったさりゅの代わりに空を掴んだ。


 ……バン!


 頭上で眩しい光が散った。ピンク色の火花が弾ける。

 目の前に広がる民家や海や砂浜が蜃気楼しんきろうのように揺らめいた。てっぺんからさらさらと赤く染まって消えてゆく。


 ……バン! バン! バン!


 花火が打ち上がるほどに赤い霧は激しさを増し、海を消し、商業区を消し、居住区の海岸を消した。迫りくるその壁はボクの下駄の前で止まった。

 足先は奈落に続く深い崖のような、虚無の暗闇が広がっている。


 ……バン! バン! バン!


「今年もきれいねぇ」

「うちの子、ちゃんと見てるかしら」

 背後で世間話をしていた主婦たちが話を止めて空に見入る。

 歓声を上げて、子供たちが坂道を駆けてくる。

「走れ、走れ! もっと早く!」

「花火、終わっちゃうぜ!」

「置いていかないでよ~!」

 ボクの脇を走り抜け、子供たちは赤く散って跡形もなくなる。

 再び歩き出す。寄り添うように赤い霧と黒い影がボクの後をついてくる。

 花火が打ち上がり、人々は消滅し、原初の闇がレムレスを覆う。


 ボクは解放する。

 みんなを。

 このレムレスから。

 旅の道連れは一人だけで十分だ。


「ネムル!」

 名前を呼ばれて振り仰ぐ。坂道の上にセツナが立っていた。

「花火、始まっちゃったわよ!」

「行こう、セツナ」

 手を取り合って歩き出す。滅びゆく世界を従えて。

「空中図書館」に辿り着いた。重い玄関扉の前に「CLOSE」と掛かれた札が掛かっている。ボクは父上の遺品箱から「空中図書館」の合鍵を持ってきていた。研究資料の調達のため今までにも何度か図書館へ忍び込んだことがある。

「〝特等席とくとうせき〟ってここのこと?」

 セツナがあきれ顔で溜息を吐く。

「見つかったら怒られるわよ」

「大丈夫だよ」

 ボクは笑う。

「怒る人はもういない」

 躊躇うセツナの手を取って古い書物のにおいのする館内を通り抜ける。


 父上の研究所――「空中図書館」は幼いボクの遊び場だった。ここからすべてが始まった。本はボクに言葉を教え、知識を与えた。与えられた知識を使ってあらゆるものを発明した。

 結局、それらは何の役にも立たなかった。

 誰の窮地きゅうちも救えない、ガラクタの寄せ集めに過ぎない。

 赤い霧が書棚を削る。東西の知識が、古今の知恵が、粒化りゅうかし闇の中へ消える。ボクは捨てた。

 魂の癒しであり武器であった知性を、捨てた。


 中庭へ出ると、大きな花火が崖の向こうから飛び出した。空の上と海の上、二重に火花が瞬いて、一秒の夜が色づく光に飲み込まれる。絶景だ。ボクたちは言葉を忘れてしばらく花火に見入った。


 ……バン! バン! バン!

 ……バン! バン! バン!

 ……バン! バン! バン!


「きれいだな」

「不法侵入は気が差しちゃうけど、確かにここは特等席ね」


 ……バン! バン! バン!


「カメラ、持ってくれば良かったなぁ」

「……」

「紫陽花色の花火、きれいね」

「……」

「あ、朝顔のかたち。ネムルの浴衣の模様と同じね」

「……セツナ」

「うん?」


 ……バン! バン! バン!


「ボクは、間違っていた」

「え?」


 ……バン! バン! バン!


「君は生きていない。死んでいるんだ、遠い昔に」

 セツナはまじまじとボクを見つめる。その顔の半分が、淡い花火色に染まった。

 そして、暗闇。

「……そうだ。あたし、死んでる」

 思い出したように、ぽつりと言った。


 ――〝死のプログラム〟。


 ボクは間違っていた。セツナの死は一寸先の未来に起こり得ることだと思っていた。彼女は薄命の道を歩んでいるのだと……でも、違った。それは過去の出来事だった。ボクの知らないどこかの過去でセツナは死んだ。

 巨大なコンピューターを載せた、あの灯台が何よりの証拠。


 セツナを救えなかったからこそ、ボクは世界を滅ぼそうとしているんだ。


 花火に照らされて彼女が笑ったように見えたけど、それはボクの見間違いだった。目の奥に浮き上がった模様のせいで笑ったように見えただけだ。

 模様……それは、無数にうごめく黒の斑点。一つ一つが星の形をしている。小さな星はその皮膚ひふを食い破るように彼女の顔から溢れ出し、首へ滴り、腕を、胸を、全身を、埋め尽くす。

 数ヶ月から数年の間に進行する病が、圧縮された時間の中で一気に噴き出した。

「……どうしてネムルは大人になったの?」

「星屑の病」に侵された身体を震わせてセツナは低くつぶやいた。

「あの夏の約束、忘れちゃったの? いつまでも子供でいようって、ずっと高校生やろうよって言い出したのはあんたじゃない。あたし、待っていたんだよ。ずっと、ずっと、この場所で待っていたのに」

「セツナ……」

「それなのにあんたは大人になった。あたしのこと置き去りにして、レムレスを捨てて、生き延びて、今さら謝りにきたって遅いのよ。救済も償いも意味ないわ。だってあたしは死んじゃったんだもん」

 ――セツナ……。

 そのとき、ボクは見た。消えてしまった図書館の暗がりから女の影が歩いてくるのを。


 かかとの高いヒールの音が時の終りを告げるように、コツコツと儚く響き渡った。

 それは追想の中で何度も出会った、大人のボクの姿だった。


 ……ぽろっ。ぽろっ。ぽろっ。


 いつかの夜に流れた涙と同じ涙が頬を伝った。

 ボクは泣いていた。


 ……ぽろっ。ぽろっ。ぽろっ。


 大人のボクも泣いていた。

 大人のボクはセツナの手を取る。ボクが今そうしているように。

 過去と未来が折り重なって一つになると、悲しみに暮れた子供の視界に、絶望に染まった大人の視界に、可哀想なセツナが見えた。

 心臓が二度立て続けに脈打って、ボクはすべてを思い出した。

 セツナがいなくなってからの一切を――〝死のプログラム〟とは何なのかを。


「ごめんよ、セツナ。君を置いて大人になるべきじゃなかったね」

 君の存在しない世界に、ボクが存在する理由はない。

 頭ではちゃんと分かっていたのに、恐怖に足をすくわれた。

 自分一人の力では、どうしてもその決心がつかなかった。

 だからボクは用意した。幸せに包まれた夢の世界と、その終焉にふさわしい〝死の計画ぷろぐらむ〟を。

 そのプログラムは空を赤く染め、レムレスをとこしえの闇に導く……でも、それだけじゃない。

 君がボクを拒絶する。

 七年間待ち望んでいた言葉を、ホンモノの君からはついぞ語られなかった真実を、叫んでくれる。生きる希望を根こそぎ摘み取ってくれるんだ。

 肉体的な死の前の、精神的な死――完全なる死。

 これこそが〝死のプログラム〟。


 花火は止んだ。

 夜空を飲み込み、黒い闇が迫ってくる。

 今まさに、消えゆく運命。

 両腕で、抱きしめようとした彼女はいない。

 下駄が、浴衣が、腕が、掌が、闇に覆われて見えなくなる。


 全ての終りがやってきた。

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