赤い時間


          5


 水上自転車が揺れる。温かな身体。そっと目を開ける。

 よいしょ、よいしょ、と声を上げながらセツナが自転車をいでいる。

 この状態があまりにも気持ち良く、うたたねをしてしまったようだ。

「ネムル、今、寝てたでしょ」

「ん……寝てない」

「もーっ、見え見えの嘘つかないの! 海に落ちても助けないよ!」

 それはたまらない。海に落ちたらボクは泳げない。振り落とされないようその背にしっかりと掴まる。


 ボクたちはどこへ向かっているんだっけ?

 そうだ、学校だ。

 ボクもセツナも制服を着ていない。

 そうか、夏休みだった。

 どうして学校へ行くんだろう?

 ああ、ナギに会うためだ……寝ぼけた頭が徐々に覚醒かくせいに近づく。


 ナギに会って、謝るんだ。


 昨日はひどいことを言ってごめん。そして頭を下げる。それでも許してくれなかったら、渾身こんしんの力を込めて謝ろうと思う。

 そのために今日はシャベルを持ってきた。

 身をていしてできる最大の謝罪は、自分で掘った穴の中に頭を突っ込んで土下座することだと、浪速なにわの金融的な人がテレビで言っていた。「そんなことをしなくても、ナギは許してくれるわよ」とセツナは笑うが、それではこちらの気持ちが収まらない。

 今こそ渾身の謝罪を見せるときだ。


「というわけで、これから穴を掘ります」

「やっ、やめろよ!」

 ナギが手を振って慌てる。

「グラウンドに穴掘ったら走れなくなるだろ! そんな誠意いらねぇよ……って言ってる傍から穴を掘るな!」

 シャベルを取られた。天高く掲げられ、ジャンプをしても届かない。気分はガキ大将に宝物を取り上げられたいじめられっ子だ。他人の目にもそのように映ったらしく、ナギと同じジャージを着た男の子が「弱いものいじめはいけないよ!」と割り込んでくる。

「いじめられてるのはオレの方だ!」

 しっしっ、とナギは精悍せいかんな顔つきの男の子を追い払う。

「高瀬川が出てくると話がややこしくなるんだよな……それで、謝るって何? ネムル、何したの?」

「あたしも知りたい」とセツナ。

「学校嫌いのあんたがわざわざ出向くほどのことってなんだろう?」

「君たち、昨日の事件を覚えていないのか?」

「事件?」

 セツナとナギは顔を見合わせた。それぞれが考え事の仕草を取って、昨日の勉強会に思いをせる。

 それでも答えが見つからなかったようで、

「事件って、何?」

 仲良く二人の声がハモった。


 ……おかしい。


 昨日の出来事がすぐに忘れてしまえるほどの些事であるはずがない。「足を怪我する」とボクが不吉な予言をしたせいでナギが怒った。セツナは仲裁ちゅうさいにまごついた。

 ボクたちは今もケンカ中のはずなのだが……。

 しばらく考え、そして気づいた。

「そうか、ここは夢の中だ……いや、あちら側が夢だったのかも」

「えっ、どういうこと?」

「ボクにも良く分からない」

「はあ?」

「あれは一体、何だったのだろうか」

 ひゅうっと風が吹いて、校庭に砂ぼこりが舞う。セツナもナギも目を点にしてボクを見ている……ここは謝ったほうが良さそうだな。

 ぺこり、と音がするくらいの角度まで頭を下げる。

「ごめん」

「……」

 二人は石のように固まったまま動かない。誠意が足りないせいだ。

 シャベルを取り返し、地面にしゃがむ。

「今から穴を掘ります」

「やめろっ!」

 我に帰ったナギに再びシャベルを取られた。



 その日の午前いっぱい、ボクとセツナは陸上部の練習を見学した。

 どの選手も俊足だったが、ナギはとりわけ速く走った。一着でゴールしたとき、わーっと感嘆の声をあげてセツナが拍手した。照れ屋のナギは聞こえないふりをしていた。それを見ていた仲間の部員たちがはやし立てると、砂煙を上げて水飲み場の方へ逃げてしまった。

 ボクの見る限り、ナギはいつものナギだった。怒ってもいないし、怪我もしていない。

 ごくごく平凡な夏休みの一風景。


 違っているのは、空だけだった。


「変ね。まだ十二時なのに……」

 帰り際、腕時計と空とを交互に見比べながら不思議そうにセツナは言った。つられて顔を上げると、早くも夕焼けが出ていた。不思議なことにその夕焼けは波打つ海面のように揺らめいていた。

 よく見ると赤い空の背後に青い空が透けて見える。


 これは夕焼けじゃない。

 霧だ。

 赤い霧が上空を覆っているのだ。


「セツナ……」

 商業区にボクを降ろし、赤い日差しの中へ消えていこうとする彼女を呼び止めた。不安だった。別れ難かった。出来ることなら見失わないように、遠くへ行ってしまわないように、ずっと寄り添っていたかった。

 遠からず、彼女がいなくなってしまうなんて――そしてもう二度と会えないなんて――信じられない。

 それがボクの心に確信として根付いてしまっていても。


 信じたく、ない。


「どこにも行かないで」

「え?」

「ずっと傍にいて。行っちゃ嫌だ。嫌だよ、セツナ」

「うーん……」

 ボクに洋服の裾を掴まれたまま、セツナはぽりぽりと頬を掻いた。

「帰って受験勉強しなきゃいけないし……」

「違う! ボクが言いたいのは、そういうことじゃなくて!」

「じゃあ、どういうこと?」

「それは、上手く言えない……」

「あんたねー」

 セツナは呆れ顔で溜息を吐いた。

 いつもなら根負けして、ボクの言うことをなんでも聞いてくれる溜息だったのに。


「だーめ」とセツナは言った。


「いい加減、大人になりなさい。あたしがいつまでも傍にいてくれると思ったら大間違いよ。これから受験で忙しくなるし、大学生になったらもっと会う機会も減っちゃうんだから……今から慣れておかなくちゃ」

「……」

「目をうるうるさせてもだめ。それじゃあたしは帰るわよ。あんたも早く帰りなよ。またね!」

 セツナは自転車に乗り込むと、大きく手を振って帰っていった。


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