再生


          10


 商業区に戻ると、「曼荼羅ガレージ」の玄関にネムルがいた。

 炎天の下、うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かない。

「ネムル!」

 駆け寄って、抱き起こす。名前を呼んでも反応がない。小さな身体は水をかぶったように汗でびっしょり濡れていた。

 ひとまずガレージ一階のソファの上へ寝かせる。ネムルはノートパソコンを持っていた。抱きかかえたときに真っ赤に焼けた両腕からパソコンが滑り落ちた。地面に激突する前にユークがキャッチする。


 ユークはパソコンに繋がれた細いコードを指でつまんだ。先端に妙な形の端子がついている。正円の両側に楕円が二つついた――この形、ウサギの顔か?

「こんな規格の差込口ポート、見たことない。ノートパソコンなんか持ち出して、博士は何をするつもりでいたのかしら?」

「おい、そんなもん観察してる場合じゃないだろ。こいつ、ずっと眠ったままなんだ。わけを知ってるなら教えてくれ」

「キャパオーバー」

「何だって?」

「情報過多よ。博士はあまりにも多くの時間を周回し過ぎた。くわえて私たちの記憶まで共有していたのだから、脳に掛かった負荷は計り知れない。言うなれば、博士はたくさんの思い出に押し潰されてしまったの」

 思い出に、押し潰される……。

「助かるんだろうな?」

 ユークは頷いた。

「ただしあまり時間がないわ。名推理を頼むわよ、探偵さん」


 ……灯台守。


 俺は頷く。

 俺の推測が正しければ、灯台守はこれしかない。

 身をかがめて、ネムルの首に掛かったネックレスを外す。ネムルが欠かさず身に着けていたものだ。金古美きんこびのチェーンの先に試験官がついていて、その中に小さな白いかけらが入っている。揺れてカラカラカラ、と音が鳴る。

 ユークは目を凝らして試験官を見る。わけが分からないと言った表情。

「骨だ」と俺は教えてやる。

 珊瑚の化石でも、白い石のかけらでもない。

「セツナの、骨だ」

「骨……」

「六年前、セツナが死んだときに盗んだんだ。現実世界でその瞬間をさりゅが目撃していた。灯台守はセツナであってセツナでない。俺たちの推測は当たらずとも遠からずだった」

 ペンダントをユークに手渡す。セツナと同じその顔が寂しそうに微笑んだ。

「博士……あなたは、セツナが大好きだったのね。私が生まれてさぞかし落胆したことでしょう。セツナじゃなくてごめんなさい」

 ペンダントを身に着ける。黒い服の上で小さな骨が微かに揺れる。

 俺を見上げて頷く彼女はいつもの落ち着き払ったユークに戻っていた。

「行きましょう、世界を終らせに」



 アクアバギーが夜の海を滑る。懐かしさでいっぱいのレムレスがどんどん遠ざかってゆく。俺たちは振り返らない。

 ネムルは家に残してきた。次に彼女が目覚めるのは、廃墟レムレスのガラスケースの中だろう。

「目覚めたら暴れ出しそうだよな、あいつ」

「……」

「〝夢見る機械〟も壊さねぇと……お前の手、現実世界でも変形できないのか? ネムルが起きるより先に使えないようにしておかないと大変だぞ」

「……」

「何か良い方法ないかな。俺のサーベルじゃ細すぎて折れるだろうし、起きたら作戦会議な」

「……」

 肩を握る手に力がこもる。

「ユーク?」

 首を傾けて彼女を見上げる。

「俺の話、聞いてるか?」

「……あるべき場所にかえるだけ」

「うん?」

「そうよ。私は、還るだけ」

「全然聞いてないな」

「博士のことはあなたに任せます」

「任されても困るんだけど」

「妹が一人増えたと思えばいいじゃない」

「いらねーよ、あんな可愛くない妹」

「あら、楠木博士、可愛いわよ。発明以外なんにもできなくて。放っておいたらすぐ死んじゃう仔猫みたいに可愛いの」


 やがて灯台が見えてきた。

 ユークの胸にぶら下がった、灯台守が淡い光を放つ。

 バギーを岸に横着けする。灯台へ向かうユークを見送った後、地面にしゃがんで空を見上げた。

 まもなく空が濃紺に変わり始めた。まだ夕飯時だというのに、夜はどんどん更けてゆく。映像を早送りするように、東から昇り始めた月があっという間に天頂に達し、西の方角へ沈んだ。

 明け方近くなったとき、不思議な現象が現れた。複雑な英語と数式、奇妙な図形と記号が、灯台のてっぺんから波紋のように空へ広がった。その模様は現れては消え、消えては現れる。まるでデータを読み込んでいるように。

 ユークが灯台守を使って情報を書き換えているのだ。


 ネムルが所有する管理者権限をユークに移す。

 そして、この夢を終らせる。


 灯台から出てきたユークは、俺の側を通り過ぎて立ち止まった。

「……渚」

 深呼吸して振り返る。暁の空の下、ユークの顔に薔薇色の光が差した。

 彼女は手を差し出した。俺の事務所で、初めて出会ったときと同じように。

「手を、握っても良い?」

「別に良いけど……お前の手はいつも冷たいな。冷え性か?」

「渚の手は温かいわ。生きているのね」

 ユークはにっこり笑った。セツナみたいに屈託のない笑顔で。

「ありがとう。短い間だったけど、殺し合いの寸前までケンカしたこともあったけど、私の選んだ探偵があなたで良かった」


 ……何か、おかしい。

 どうしてそんなにかしこまる?


「まるで今生の別れみたいだな」

「そうよ。ここでお別れ」

「……冗談、だろ?」

 なんだよそれ。

「お別れってどういうことだ。ネムルを救って終わりじゃないのかよ。どうしてユークが……」

「今度は私が情報過多になっちゃったの」

 俺の言葉を遮って、ユークは自分のこめかみを指差す――その中に埋まった、生身の脳を。


「博士は人間の寿命を超えた、膨大な時間を生き過ぎた。この状態のまま目覚めても廃人と化してしまうだけ。だから百四十五年分の記憶をもれなく私に移し替えた。夢で過ごした博士の記憶は全部失われてしまったけれど……ま、博士が怒りだしたら私の代わりに謝っておいて」


「ふ、ふざけんなよ! 勝手なことしてんじゃねぇっ!」

 思わず掴んだ彼女の肩が、光の中へ薄くなる。俺の手はユークの身体をすり抜けて宙を掴んだ。勢い余って、地面に膝をつく。

「夢見る機械」を使ってユークの記憶を消せばいい。俺たち四人で記憶を分け合って負担がかからないようにすればいい。思いつくままに解決策を喋っても、ユークは首を縦に振らない。

「夢を維持する柱として、誰かがずっと記憶を保持している必要があるの。分け合うことも、消去することもできない……これで良いのよ。セツナ同様、私も存在してはいけない存在。博士の生命を救って死ねるなら本望だわ」

「……くそっ!」

 力任せに地面を殴りつける。しびれる衝撃が骨に伝わる。リアルすぎる夢が、痛い。

 膨大な年月を繰り返して作り上げられたこの世界は、俺たちの目覚めとともに閉じられ、ユークの脳を押し潰す。。


 結局、俺は救えない。

 いつだって同じだ。


「もう誰も失いたくない……失いたくないのに……」

 ユークの半透明の手が頬に触れる。体温も感触もない。思い出のように視覚映像だけが残る。

「渚、私のために泣いてくれるのね」

 その声も、記憶の底から響くように微かだ。

「それなら私はあなたのために笑っているわ。泣くことは笑うことの反対だから」

 灯台守が輝き、一面が真っ白な光に包まれる。空も、海も、灯台も、俺自身も膨張する光の中へ巻き込まれた。「ユーク!」と呼ぶ声が光に呑まれて無音になる。何もない白の中へ手を伸ばす。手探りで彼女を探す。焼けるような閃光は終わることなく輝き続けた。


 伸ばした手が、触れた。さっきまで右手に感じていた、冷たさに。華奢な手、指、手首。引き寄せて、先に続く身体を抱きしめる。柑橘の香り。事務所で鼻をくすぐった、ユークの髪の匂いがする。離すことのないよう強く抱いた。

 散った光が吸収される。

 ユークの中へ。

 ユークの持つ灯台守の中へと。

 西の方角から暗闇が戻ってくると、棉のように柔らかな静寂に取り囲まれた。五感を使って、周囲に危険がないことを確かめてから腕の力を緩める。


 ユークがいた。

 消えかけていたはずの彼女は、少しはにかんで俺を見上げていた。


 距離を取ってまじまじと見つめる。

 再び現れたユークはどこか違う。なんというか、少女っぽさが増したというか……。

「あ、制服か!」

 そう、ユークの着ているものが黒いドレスから蒼色のセーラー服に変わっている。俺たちが通っていた高校の制服だ。

 他にも違いがいくつかある。真っ白なショートカットの片側に丁寧な編み込みが入っている。耳元に小さなイヤリング。首に灯台守のペンダント。片方の手首はカラフルな腕輪できらめいている。

 それから、ちょっと気になることが……

「スカート、短すぎないか? パンツ見えるぞ」

「なっ……! ど、どこ見てんのよ! このヘンタイっ!」

 通学鞄の角ばってる部分で殴られた。

 痛ぇ……。こんなところでもヘンタイ呼ばわりかよ。

 しかし、この恰好はまるで女子高生だな。いよいよセツナに似てきたけれど、ユークの制服の着こなしはセツナと違って不良くさい。こいつの場合、自分の手を汚さずに気に入らないやつを苛めるインテリヤンキーになりそうだ。

「ユークさん、これは一体、どういうことですかね?」

 俺も思わず敬語になる。

「私の、夢」と答えるユークの声は小さかった。

「私の夢……それは女子高生になること。この生命にまだ余裕があったから、誘惑に負けてしまった。も、もちろん、すぐ元に戻すわよ! ほんの少しの間だけよ! 当たり前じゃないっ!」

 俺、まだ何も言ってないんだけど……。

 ユークは通学鞄を開いて、小さな手鏡を取り出す。月明かりを反射させながら、鏡に向かってにっこり笑う。

「女子高生♪」

 スカートをひらめかせくるくる回り始めるユーク。

「女子高生~♪ 女子高生~♪ 博士と同じ、女子高生~♪」

 小さな唇から、ご機嫌な鼻歌が漏れる。

 ユークが浮かれている。

 浮かれまくっている。

「博士のこと、ネムルちゃんって呼んでいいかしら。いきなり馴れ馴れしいかな……それなら楠木さん? ネムルさん? お姉さま? うふふっ、女子高生になると悩み事も楽しいのね」

 俺を見る、その瞳に星がたくさん光ってる。

 眩しい……眩しすぎて直視できない。汚れちまった大人である俺なんか一瞬で消し飛ばされそうなくらい清らかな笑顔だ。

「よ、良かったな……」

 曖昧に微笑む俺に向かって、ユークは手を合わせた。

 片目を閉じて、上目遣いに、


「ひと夏だけ、許してちょうだい」


「……え?」

 胸元のネックレス――灯台守が輝き出す。

 天空に再び数式が現れた。じんを描くように灯台の周りを取り囲む。雲が超高速で流れ、太陽と月が飛び上がり、東の空へ墜落する。繰り返される、昼と夜。

 ……まさか、時間が逆戻っているのか?

 水中から見た外のように、周りの風景が波打ち始める。

 打ち壊され、混ざり合って、新しい世界が生まれる。それはもう、永遠に続くネムルの夢じゃない。


 ユーク。

 これから始まるのは、ユークの夢。


 俺の記憶が、五感が、感情が、ほどけてゆく……。


「渚のこと、忘れない」

 ユークの声が夢に滲む。


 俺は……。

 俺の……。

 記憶が……。


「私は忘れない。あなたに出会えたこと、最後まで忘れないから」


 その声は誰のものだったのか。

 俺にはもう、分からなかった。


<第三章 海砦レムレス 完>

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