すべては妹のために


          3


 空が青い。背中に当たる日差しが優しさから厳しさへ変わる。

 腰を落として、顔を上げる。200メートル先のゴールは、いつも輝いて見える。


 深く息を吐いて……大丈夫。

 オレは、行ける。


 鋭いピストルの音が風に紛れた。向かい風を切るように腕を振って白線のゴールをただ目指す。


 速く、もっと速く! 走れっ!


 一瞬にして過ぎ去る二十数秒。どっと吹き出る汗を拭って記録を聞きにいく。

「23.68秒」

 マネージャーの曖昧な笑顔。

「ありがとう」

「きっと調子が悪かっただけ」

「分かってる」

 そのまま水飲み場へ行って、顔をばしゃばしゃ洗う。蛇口を閉める。キュッという音がする。頬を水が滴る。汗と混じってTシャツを濡らす。水飲み場の縁に手をつく。水が排水溝へ流れてゆく様をじっと見つめる。落ちた。落ちた。落ちた。


 タイムが、落ちた。


 何度計っても元に戻らない。ここ三ヶ月、ずっと同じ記録のまま停滞している。どうしたんだよ、オレ。この間まで、高瀬川と対等に渡り合っていたじゃないか。「陸上部の二強」と呼ばれることすらムカついていたのに、今じゃ横並びに走ることも難しくなっている。


 ……本当に、どうしちゃったんだよ。


 背後に視線を感じた。校舎裏へ通じる土手の途中で三人の部員が何やらヒソヒソやっていた。オレより二秒も三秒も遅い、それでいて向上心のないやつら。普段は気にも留めないのに、気がつけば土手に足を向けていた。


 にやけ面のアホ連中はお喋りを止めて白々しい笑顔を浮かべる。

「よぉ、ナギ。最近、振るわないな」

「いつでも大会記録と言うわけにはいかないさ」

「僕たちのために手加減してくれたのかと思っていたよ」

「手加減って、歩けばいいのか? 悪いけどトラックは走るところなんだ。陰口を叩く場所でも、仲良くつるむ場所でもない」

「面白いこと言うね。君の足の速さは頭の回転に取って代わられちゃったみたいだな」

「お前らは舌の回りより、足回りを鍛えた方が良いと思うぜ」

 はははははっと朗らかに笑い合う。

 その後の、静寂。

 どいつも青筋の浮かび上がった笑顔を崩さない。そのうちの一人が笑顔のままつぶやいた。


「砦っ子が調子に乗るなよ」

「……」

「ほんとは誰より弱っちいくせに」

「……」


 陸上競技が無差別格闘技に成り代わる一触即発の空気を破ったのはスターターピストルだった。オレが走り終わった後も一定時間ごとに銃声は聞こえていた。しかし、その組だけはグラウンドにいる全員を振り向かせる何かがあった。

 何か……というか単純に空気が、高瀬川がスターティングブロックに足を乗せた瞬間、ずっしりと重みを持って地面に落ちた。


 高瀬川は走った。誰よりも速く。風をまとったそのフォームはハッとするほど美しかった。他の走者をぐんぐん引き離し、あっという間にゴールした。

 オレも、向かいの三人も、他競技のやつらさえ、ぽかんと口を開けたまま束の間のドラマに魅了された。

 マネージャーからタイムを聞いて、高瀬川はにこっと笑った。



「ナギ、あんたはなぜ働く?」

 突然、問われて言葉に詰まる。何気ない仕事中の雑談。

 どう切り抜けたものか考えていると、さらに深刻な顔で問われる。

「まさか生活が逼迫してるんじゃなかろうね?」

「まさか! 違いますよ!」

 慌てて否定するも、ヤナの目から不安は消えない。


 ……仕方ない。


 意を決して、打ち明けた。


「贈り物を、したくて」

「贈り物?」

「妹にランドセルをあげようと思っているんです」

 まだ誰にも話してない。セツナに訊かれたときだって打ち明けなかった秘密の計画。


 オレが働く理由は妹の入学祝いを買うためだ。


 来年、さりゅは小学校に入学する。数人ばかりの子供が学ぶレムレスの小さな学校だ。これから春に向けて要り用のものを買い揃えていく。

出費が増えるけど特に心配はしていない。オレたち兄妹には親父が遺してくれた金がある。国から補助金も出ている。それらの金を工面すればランドセルだって買える、けど……。


「自分の金で買いたいんです。オレ、走ることしかできないし、そのせいで妹に我慢させていることがたくさんあるから……たまには兄貴っぽいことしてやりたいなって」

 やばい。話しているそばから顔が熱くなってきた。臭い、臭すぎる志望動機だ。話した後にまとわりつく、妙な美しさが恥ずかしい。

 本当のことなんて言わなきゃ良かった。この計画が成功するかもわからないのに……。

「あんたの顔、夕陽みたいに真っ赤だよ」

 ヤナの声は楽しげだ。カウンター越しにガシガシと頭を撫でられる。

いきなことするね、お兄ちゃん」

「や、やめてください……!」

 頭を振ってその手から逃れてもヤナはまだ笑っていた。ドアベルが鳴ってほっと息を吐く。招かれざる客だが――とにかく客が来てくれて助かった。

 ヤナは何事もなかったように、にっこりと探偵を迎えた。

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