4-4
フランクフルトから離れてマインツ方面に向かった。そのまま街道を反れて森の中へ。
「追っ手は?」とエリオット。
「もういない。神経質」
アンナは手綱を緩ませた。
「ならいいんだが」
「死刑でも恐れてるのか? お前、死刑執行人だろ?」
「刑吏は親父の代まで。俺は商人だ」
「戯言ご苦労様。口だけなら商人顔負けだな。頭もよけりゃ今頃は大富豪だったろうよ」
馬の足を緩める。
「これから富豪くらいにはなる予定だ」
「私の借金返してから言え」
「金なら返す。これが終われば返せるんだ」
「未来が近ければいいな」
そのまま森の中を進むと、木々が開けた場所に出た。
「ここで野宿だ」
アンナは勝手に決めた。馬を下りる。反論してもしょうがない。
「さっきはベッドがあったのに」とエリオットは嘆いた。
「なかなかの喧嘩っぷりだったじゃないか」
「え? そうか」
「間抜け面」
アンナはエリオットの横を抜け、馬を木に繋いだ。「火を起こせ。交代で番をするぞ。賊か狼が来たら起こす。これがルール」
「あんたはずっと寝てそうだな」
「どっちが。木を集めてくる」
馬から荷物を下ろすと、アンナは森の闇へ消えた。
■
「お前は下手だな。貸せ」とアンナ。
「いや、俺は出来る」
「これじゃ日が明けると言ってんだよ」
エリオットの手から火打石が引っ手繰られる。アンナは慣れた手つきでそれを叩き、火種をおが屑に移す。細い指で火種を掬い上げ、息を吹きかけた。たちまち火種は炎となった。
「これがやり方ってもんだ」
アンナは得意そうだ。
「旅慣れしてるんだな」
「どこにでも行った。もう昔の話だがな」
「そんなに年老いちゃ見えない」
正確な年齢は聞いたことがない。だがアンナの姿は、エリオットよりも下に見える。
「そうか。まぁそうだな」
アンナは揺れる炎を見つめている。
「今、何か言いかけなかったか?」
「お前に隠してもしょうがない」
たぶん魔術のことだろう。エリオットにはわかった。アンナの能力を知れる格好の機会だ。
「私はマルコとそう変わらない」
「え? 何がだ?」
「歳だよ」
「マルコ司祭は老人だったぞ」
「魔力だ。私は不老不死だ。お前なら信じられるだろ?」
アンナは赤く照らされた自分の手を見ていた。何かを確かめるように開いては閉じる。
「そうか。だからあんなに親しそうだったのか」
「フェルデンって村を知ってるか。ペグニッツ川をひたすら東に進むとある。そこが故郷だ」
「家族はまだそこにいるのか」
「誰も居ない。父親は飲んだくれのクズ野郎で死んだ。母親は東洋にある揚州の出身で、他の男を作って出て行った。私が十二のときだった。子育てに熱心な人たちではなかったな」
「魔女の力もそこで?」
「惑星の書を開いたのは確かにそこだ。十二の少女が村にたった一人で残されたんだ。それからは色々あった」
「あんたの惑星の書は?」
「私と一緒に燃えたんだ。私は燃え盛る教会の中にいて、そこであの本を開いた。だからもうこの世界には存在しない」
エリオットにはアンナの話をそれ以上、聞くことは出来なかった。
「余計なことを聞いて悪かった――」と言ったところで、唸り声が聞こえた。
森の奥、炎の光が届かない闇の中からだ。飢えた獣が喉を鳴らす声だ。
「狼か。お前、剣を持っていたな。借りるぞ」
「あんたが持ってもボロだよ」
帯刀はしていない。馬に積んでいる。人間を切るための物ではないからだ。
「しょうがない」とアンナ。
狼が姿を現した。二頭いる。
「素手で倒せるのか?」
聞いてから愚問だと気づいた。
「いや、戦うまでもない。本当は運動がてら剣で狩りをしたかったんだがな」
アンナはゆっくりと狼に歩み寄り始めた。すると、狼は先ほどまでの唸り声を潜めて、身体を強張らせる。それから睨み合いは長く続かず、二頭の狼は暗闇の中へ姿を消した。
「動物のほうが魔力に敏感なんだ」
アンナは普通のことのように話した。「少し気を高めればすぐだ」
「俺にはそういうのないけどな」
「お前が魔女殺しなら、それは動物に愛されるほうだろう。私とは逆だ」
「心当たりはない。女にも嫌われてばかりだ」
「豚が寄ってきたりしないか? 仲間だろ」
「いつからだ」
アンナがエリオットの横に腰を下ろした。炎の前に来て気がついたが、先ほどの騒動で上着が破れていた。前を止めていたボタンが飛び、胸がはだけている。
女だ。
汚い言葉遣い、ふてぶてしさ、それに圧倒的な強さのおかげで全く意識していなかったが、こうやって炎に顔を照られて、黙っているのを見ると、これがなかなか美しい。東洋人の母から受け継いだ黒髪と切れ長の目。白い肌と上着から覗く胸元。
「私が欲しいのか?」
乾いた枝が砕ける音が響いた。
「どうしてわかったって顔だな。エリオット」とアンナは続ける。
「そんなつもりはない。お前は俺にとって悪魔だ」
「やはり豚だな。鼻息が荒いぞ。ほら、欲しいのか?」
アンナは自分の胸を掴み、それをエリオットに向けて協調する。
「酔っ払いが」
「確かに飲んだな。しかしもう少し運動がしたい。欲求不満だ」
アンナがエリオットに接近してくる。
「本気なのか?」とエリオット。
「魔女と交わりたくないか?」
「俺は魔女殺しだ――」
アンナの吐息が顔に当たる。
「ふふ。馬鹿な男だ」
顔を軽く叩かれた。「からかい甲斐ってもんがある」
アンナがエリオットから離れた。
「俺を騙したのか?」
「お前は私を騙してるだろ。返せるって言った金を返してない。仕返しだ」
「あんたは男の名誉を傷つけたんだぞ」
「やるのか?」
この場合は男女の行為でなく、意味するものは拳の交換だ。アンナは拳を鳴らす。
「それは無理」
エリオットは怖気ずく。アンナは女だが勝てる気がしない。
「いいか? これが男の名誉を傷つける、ということだ」
アンナは言った。「私がお前をからかったのとは全く違う。私は戦いを挑み、お前は戦いから逃げた。お前は今、自分で自分の男に傷をつけたんだ」
「わかった」
「よろしい。では私は先に寝る。何かあったら起こせ」
アンナは荷物から上着を取り出し、それを土の上に敷く。
「明るくなるまで起こすなよ」
アンナは寝転んだ。「あと、別にお前が嫌いってわけじゃないからな」
「え? どういう意味だよ」
アンナに聞いても何も答えてはくれなかった。やけに寝つきが良い。
■
朝の手前。霧が立ち込め、太陽が登る前にエリオットとアンナは動き出した。
「眠れたか?」
馬を飛ばす。エリオットはアンナに聞かれた。
「いや全然」
「そうか。私は寝たぞ」
「魔女が先に寝るなんてね」
「時代は変わった」
「終末は近いな」
広場で演説を打つ旅の修道士たちが、よく終末の話をしていたのを思い出す。
「ケルンまで一気に行くぞ」
併走していたアンナが先を行った。エリオットは馬の腹を蹴って、それを追った。
それから一日半、二人は走り続けた。
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