1-3
朝だった。エリオットは目を開けた。昨晩は殴られただけなのに、泥のように眠れた。起きると、すぐに考えたのはこれからのことだった。
一階に下りると、カトリーナが掃除をしていた。テーブルのコップには水が用意してある。
「おはようございます、お兄様」
「あぁ」
「お怪我は大丈夫?」
「まだ左肩が痛むよ」
水を飲んだ。生き返る。カトリーナには持参金について一切話していない。
「お兄様、今夜、新しい料理を試そうと思うの」
「いいよ。お前の料理なら喜んで実験台になる」
「お兄様の意地悪」
カトリーナは結婚に備えて、料理に凝っている。本屋で料理の指南書を買ってからというもの毎日がエリオットのいうとおり実験だった。
「出かけてくる」
エリオットはシャツを羽織った。靴を履き、紐を結ぶ。外に出ると夏日だった。陽が眩しい。目が焼けるようだった。
■
街の中央広場にあるフラウエン教会。その前には物乞いがたむろしている。エリオットは物乞いの誘いを無視して教会へ。
身廊に並ぶ椅子に腰掛けている人は多くない。酔っ払い、老人、物乞い。熱心なキリスト教徒を探すほうが難しい。身廊の奥、内陣から差し込む光が眩しかった。説教は始まっていなく、司祭の姿はなかった。
「昨日はどうも」
エリオットはアンナの横に腰掛ける。
「金は?」とアンナ。
「ないんだ」
「六百六十五グルテンだ」
鉄扇をパチンと鳴らす。
「増えてる」
「指で数えたのか?」
「そんな器用じゃない」
「確かに。器用な人間は私から金を借りない」
「待って欲しいんだ」
「それでも商売人か。仕事を間違えたな。ずっとこの仕事か?」
「ボローニャの大学に行ってた。自由七科も碌にやらなかったけど、もし真面目にやってれば今でも向こうで医学を学んでたろうな。ま、結局この様だ。そこで覚えたのは酒、賭け事、あとは商売だった。そのうち商いが楽しくなって今じゃ本業だ」
「それで私に待てというわけか?」
「言い辛いけど――、その通りだ」
「今も待ってる。昨日も待ってたし、一昨日も待ってた」
「何も永久にってわけじゃない。金は出来たら返す」
「それが博打か? 舐めるな」
「あともう少しだったんだ」
「昨日の晩、お前が死ぬまでの話か? だったらあともう少しだったな。いいか、よく聞け」
エリオットはアンナに顎を掴まれた。顔を近づけてくる。恐ろしいほど強い握力にエリオットの顔が崩れ、厳しい表情になる。
「きく。きくよ――」と情けない声。周りに響かないよう小さく言った。
「私は高利貸しだ。だから常に二つの客を見てきている。恫喝したら金を返す客と、恫喝し暴力を振るい家族に恥をかかせてやっと金を返す客。この二つだ」
どちらも素直に返さない客だ。
「お前は後者か? 前者か? どっちだ。恫喝したら金を返すのか? それともこれから顔の形が変わるまで殴り、妹に干し草市場で客を取らせて、さらに家を売り払ってからやっと金を返すのか? どっちだ? 答えろ」
「もちろん前者だ。金は払う」
「本当か?」
顎がさらにきつく締まる。
「本当だ」
「神に誓うか?」
アンナが身廊の奥、内陣を指差した。主祭壇の後ろに聖母マリア像がある。
「誓う」
「神などいない。いるのは人間だけだ」
顎が解放された。
「あんたあれか、ルター派か? 俺も今の教会のやり方は気に食わなかったんだ」
「そういう話じゃない。私の金の話をしている。いいか。今から仕事に出ろ。丁度、募兵があった。お前の名前は既に登録済みだ。戦争に出て命懸けで金を稼いで来い」
「おい、ふざけんな――」
思わずエリオットの声が大きくなったときだった。
さらに大きな悲鳴が教会内に響いた。皺がれた男の声だった。続いて窓ガラスが割れる音。そこから男が吹っ飛んできた。
中央の廊下に転がり落ちる。
「なんだ?」とエリオット。「職人か?」
作業中の石職人か何かが落ちてきたのかと思った。
「いや、あれはマルコだ」
アンナが立ち上がった。エリオットは状況を理解できないまま辺りを見渡した。椅子に座っていた他の人間も同じようだった。
「全員、ここから逃げろ。早く、早く。殺されるぞ」
男の声だけが続いた。腹の脇から血を流し、祭服を赤く染めた老人が姿は立ち上がった。この教会の司祭、マルコ・ヘンディッヒだ。
乱れた白髪に皺だらけの顔。青い瞳は充血し、鼻と口の端からも流血していた。丸っこい身体を重そうに引き摺るようにして出てきて、手を上げ早くここから逃げろ、とジェスチャーをする。立っているのも辛そうだった。椅子の端に手をかけて、身体を支えている
「マルコ、どうした」
司祭を呼び捨てか。この女、どこまでも不遜だな。エリオットは逃げようと腰を浮かせた。関わってられない。既に酔っ払いや物乞い、信者たちの一部は扉へ走り出していた。
「惑星の書が奪われた」
「なんだって?」とアンナ。
「墓地の死体が動き出してる。なんということだ」
マルコ司祭は嘆いている。
「は? どういうことだ」
「魔術師だ。アンナ。惑星の書だ」
「本当に奪われたのか?」
「アンナ、とにかく早く――」
「一体なんで。それに、その格好もそいつら仕業か?」
「とにかく早く。助けを呼べ。アングストマンだ。アングストマンの息子を呼ぶんだ」
窓ガラスが割れる音が続く。
「アングストマン? 私がいるだろ」
「アンナ――。 確かにお前は強い。だがお前では魔術師を倒せない。わかってるだろ。それが出来るのはアングストマンだけ――」
「マルコ!」
アンナが叫んだ。マルコの背中に黒い影が覆いかぶさる。
土を被り、腐った肉のような色をした細い身体。マルコの言う動き出した死体だ。穴が開いた喉を鳴らしてうめき声を上げている。
「やめ――、やめてくれ。あぁ――、神よ――」
マルコの声には力を感じない。
他の死体も続いた。あるのかもわからないような虚ろな瞳で辺りを見回し、近くにいた人間へ飛びかかっていく。悲鳴の連鎖が始まった。
もう呑気に構えている人間はいない。死体に捕まった者は、肉を食われ、目を抉られ、自由を奪われ、断末魔と共に殺されていく。死体の一体が一人の人間を掴めば、蟻のように群がった。
「逃げろ」「殺される」「やめて、助けて」「アーメン。神よ、どうか慈悲を」「お願い、私を置いていかな――」「離れろ、やめてくれ」「痛い、痛い。誰か、誰か、俺を」「もうわからない。近寄るな」「私はまだ死にたくない。死にたくないの。痛いことはやめて」「走れ、走れ」「とにかく出ろ」
叫び声。誰もが自分のことだけを考えて扉に向かって走り出した。
「クソったれマルコ、今助ける」
エリオットの目の前でアンナが飛ぶ。凄まじい跳躍だった。人間とは思えない力だ。一瞬で距離を縮める。エリオットも走った。扉じゃない。彼は逃げなかった。アンナの後を追った。
「ふざけんなよ」
エリオットも呟いた。エリオットはアングストマンの息子だった。
逃げるわけにはいかなかった。
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