8-6

 通路の奥へ。そのまま自然の洞窟と人工的な通路を合わせたような場所に出た。さらにその先には水が流れ込んできている。壁際にはもう使われていないだろうワインの樽が並んでいた。足元には埃を被った瓶やカップ。皿の上には形の崩れた蝋燭があった。

「カテリーナ」

 エリオットとアンナは足を止めた。

「お兄様」とカテリーナの叫び。

 ヴァレンシュタインが走り出そうとしたカテリーナを抑えた。

 大雨で地下に水が流れ込んだ影響でヴァレンシュタインは足止めを喰らっていた。

「その先は行き止まりだろ」

 アンナは言った。

 地上へ続く階段から濁流が溢れていた。そのまま流れ込んだ水は洞窟の奥へ流れ込んでいく。エリオットとアンナの踝も水に浸かっていた。

「上はどうなった」

 ゆっくりと振り返ったヴァレンシュタイン。「様子はどうだ」

「大騒ぎだよ」

 アンナは髪をかき上げる。

「カテリーナを返せ」

 エリオットは言った。

「お前らの要求はなんだ」

「金と名誉だ」

「金ならやる。エリオットを殺せ」

「今度は私を買収か。ヴァレンシュタイン、お前は本当に馬鹿だな」

「魔女から馬鹿とはな」

「光栄だろ?」

「どうやら交渉は決裂のようだ」

 ヴァレンシュタインは惑星の書を持ち変える。

「どっちが追い詰められているのかわかっているのか?」

 アンナは言った。「お前は一人だ。人質を取ったところでどうにでもなる」

 アンナの血脈が浮き出している。

「ここには地下聖堂があったようだ。今じゃほとんど朽ち果てているがな。だがまだ使われているものもあった。そこの宝物庫だよ。さっき見てきた。その先だ」

 一瞬、エリオットにはヴァレンシュタインが何を言い出したのかわからなかった。

「観光でもしろってか」

 どうやらアンナも同じだったようだ。

「我々が今いるここは祭壇だったようだぞ。わかるか? この球状の空間だよ。君の後ろの壁を見ろ。微かに壁画の跡が残っているだろう」

「さっき確認した。腐るほど見た」

「そうか。それなら話は早いな。いいか。通常、これほど大規模な大聖堂には聖遺物が祭られている」

 足音がした。水面を叩きつけるように歩いてくる音だ。

 エリオットのものでもアンナのものでもない。

「誰の聖遺物があったと思う」

 ヴァレンシュタインの顔は冗談を言っているようには見えない。

「犬か猫か。はたまた鼠か」

 通路の奥から一人の男が現れた。

「五つの十字架が刻まれた棺があった。五つだ。何故五つだと思う? 聖痕を五つ持つ聖人の名を言えるか?」

「そんなのは一人だけだ」

 アンナは言う。

「ここにはイエス・キリストの聖遺物があった」とヴァレンシュタイン。

「蘇らせたのか?」

「そうだ。もちろんキリストではないがな。本物がこんなところにいる訳がない。だが聖人の代わりとして祭られた男だ」

 ヴァレンシュタインは言った。「弱いはずがない」

 男が出てきた。蘇った死体だ。

 長い髪、こけた頬に細い身体。眼球はなくなり、唇は乾き半分欠けていた。聞き取れないほど微かなうわ言を呟きながら、前へ出てくる。

「普通とは違うバケモノだよ。この通り魔力が実に馴染んで思いのままだ」

 ヴァレンシュタインが惑星の書を開いたのが合図だった。

 キリストの関節から骨が飛び出し、肉が隆起し硬化した。乾いていた身体は水を吸い上げ、膨らみ鎧のように変化していく。地下中に響き渡る叫び。牙、爪、異様なまでに長い手足と関節から出っ張った骨。巨大な獣だった。

「カテリーナを守らなく――」

「待て」

 前に出ようとしたエリオットをアンナは止める。「最後の一振りは取っておけと言ったろ」

 アンナが雄叫びを上げた。

 体中に浮き出した血脈が鼓動を打つ。肌からは赤い湯気がたった。黒い瞳に赤い血が流れていく。

「かかって来いよ、死に損ない」

 喉の奥を振るわせるアンナの声は低く重い。

 挑発に乗り仕掛けたのは偽のキリストだった。アンナの姿を見て、野犬のように襲い掛かった。アンナは壁を蹴り、その突撃を躱す。偽のキリストも常人を越えた反応で、壁に吸い付くように四肢で着地し方向転換。背後に降りたアンナのほうを向きなおす。アンナは身体を跳ね上げ、蹴りの態勢に入っていた。そのまま振り切る。偽のキリストはそれを左腕で受け止めた。右脚の蹴りで、左半身を開いていたアンナ。偽のキリストの右腕が伸びる。躱すのではなく、接近。身体を閉じ、偽のキリストの伸ばした右腕に密着させて爪を避けた。だが左半身に三本の赤い裂傷が出来る。そのままアンナは左膝を顎にぶち込んだ。偽のキリストの後頭部が壁にめり込む。距離を開けたい。しかし接近の際、アンナは右脚を掴まれていた。間を取り直すことは出来ず、起き上がるようにして壁にめり込んだ後頭部を抜いた偽のキリストの頭突きを受けた。鼻から血が吹き出た。

 鼻血は喉に落ちていき呼吸を圧迫する。

 右脚を振り回されて、地面に叩きつけられる。水に入るとアンナは恐怖から反射的に目を瞑った。

 頭を掴まれ、水の中へ押し込まれる。

 自分は決して死なない。それはアンナもわかっている。病気にもならないし老いない。だが感じる苦しみから逃れられたわけじゃない。

 クソ――。

 水に浸され鼻から血がどんどん流れる。口に入り込むと鉄の味。水が肺に達すると、咳き込んだ。さらに水を飲み込んでしまう。

 駄目だ。アンナは目を開く。

 身体を捻り、腕を振り上げた。偽のキリストの顎を砕く。足を回転させた偽のキリストの踝を跳ねた。偽のキリストが転ぶ。水飛沫。アンナは立ち上がる。腹に出来た三本の裂傷が塞がっていく。

「はぁ―」

 アンナの呼吸が荒い。「立てよ」

 手招きした。

 偽のキリストは立ち上がる。下顎が吹き飛んでいた。顔が歪んでいる。地鳴りのように呻く。突撃。

「芸がないな」

 アンナは飛ぶ。偽のキリストの顔面に膝を合わせる。顔が砕けた。それでも偽のキリストは動く。アンナを掴もうとした。アンナは広げた右腕の下、脇に入り込み、手首と胸を掴んだ。そのまま引き千切る。偽のキリストは身体を回転させた。骨を砕き、通常ではあり得ない回転。左の裏拳をアンナに放つ。

「それは私のだ」

 アンナは裏拳を掴んだ。

 偽のキリストの胸を拳で貫いた。

「馬鹿者め」

 腕を抜いた。偽のキリストは水の中へ倒れた。

「ヴァレンシュタイン――」

 エリオットは聖剣を構えた。

「もう仲間はいないようだな」とアンナが続く。

「まだこいつがいる」

 ヴァレンシュタインは惑星の書を落とし、短刀を抜いた。カテリーナを引き寄せ、首筋に向ける。「お前の妹を殺すぞ」

 エリオットの表情が揺らぐ。

「往生際が悪いな」

 アンナだった。「観念しろ」

「取引だ。私を見逃したらお前らに約束した金の倍を出す」とヴァレンシュタイン。

「カテリーナ、つま先は水の中だ。こういうときは脛だな」

 アンナが指を鳴らす。

 カテリーナは、ヴァレンシュタインの脛を踵で蹴った。驚いたヴァレンシュタインに拳を作って、金的。短刀の刃を押し込もうとしたとき、距離を詰めたアンナがその手首を掴んでいた。カテリーナがヴァレンシュタインの手から逃れる。

「よくやった、カテリーナ」

 アンナが教えた護身術だった。

 そのままアンナはヴァレンシュタインを放り投げる。

 水面に投げ込まれる。水中でうつ伏せになるヴァレンシュタイン。起き上がろうとして腕を伸ばす。丁度、四つん這いになった。

「終わりだ」とエリオット。ヴァレンシュタインは動きを止める。

「お願いだ」

 ヴァレンシュタインは震えていた。

「無理だ。お前に先はない。カテリーナ、壁を見ていろ」

 エリオットの指示に従い、カテリーナは背中を向けた。

 エリオットはアンナを見る。アンナは静かに頷いた。

 聖剣を振りかぶる。

「神よ――。おぉ神よ――」

 ヴァレンシュタインは呟いた。四つん這いのまま両肘を床に立て、手を合わせる。「神よ――、どうか――、どうか私にお慈悲を――」

「そうだ。祈れよ」

 エリオットは首を叩き斬った。

 ヴァレンシュタインの頭が落ちる。水面に波が立つ。ほどなくしてヴァレンシュタインは砂塵となり、水に流され消えてく。

 疲労がエリオットを襲った。力が抜けていく。跪き、聖剣で身体を支えた。

「よくやった」

 アンナがエリオットの腕を掴み、持ち上げた。「ニュルンベルクに帰るぞ」

「あぁ」とエリオットは返事をした。

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