極悪
水園トッ去
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一四九八年、ニュルンベルク。都市の南側。消灯を知らせる鐘が鳴ってから、時間が経った。光源といえば、家の窓から吊るされたランタンの灯りだけ。静かで弱く頼りない光だった。
「誤解だ。違う」
居酒屋、鏡亭の戸が開き、エリオットが放り出された。一緒に飛び出してきた二つのサイコロの目は六。
「俺じゃない。俺はやってない。お願いだ」
街路へ投げ出されたエリオットが続けた。哀願だ。エリオットは立ち上がろうとする。足元にあるサイコロの一つに靴が触れた。転がり出た目は再び六だった。同じ目が続く。
「いや、てめぇはやった」
鏡亭から男が出てくる。エリオットはこの男の名前を知らない。左頬に傷がある大男だ。「イカサマしやがってこの野郎」
男は鼻息荒く、胸を膨らませている。
「イカサマなんかしてない」
エリオットは必死だ。「本当だ」
「だったらてめぇの足元にあるサイコロ、転がしてみろ」と男。
何度転がしても六になることはわかっている。だからこのサイコロで勝負をした。エリオットは躊躇う。相手の顔を窺いながら、呼吸を整えた。
「黙ってねぇで何か言ったらどうだ」
野次馬が集まってきた。人を殴る理由を探しているような奴らばかりだ。傭兵崩れが仕事に溢れて、夜まで飲み歩いている。鬱憤を晴らすならエリオットのような男はうってつけだ。
エリオットは唾を飲み込んだ。サイコロを拾い上げる。汗が頬を伝い顎へ。地面に落ちる前に、背中を向けて走り出した。
「おい、待てコラ」
こんなはずじゃなかった。追ってくる男の怒声。確認すると暗闇に赤い顔が浮かんでいた。足音は怒りの激しさを表している。
「どいてくれ」
細い街路を駆け抜ける。自分がどこに向かうかなど考えてもいない。現在地も失っていた。ただ後ろから聞こえる怒声から逃れる。エリオットが走る目的はそれだけだった。
「おい、待て。殺してやる」
男の怒声は脅しに聞こえない。
「クソ」
酔いのせいか、足がもたれ転んだ。エリオットはなんとか態勢を立て直し、脇道へ入る。「そんな――」
行き止まりだった。壁だ。登れそうな高さではない。追い詰められた。
「てめぇふざけてんじゃねぇぞ」
振り返った瞬間に殴られた。衝撃。頭が砕けるようだ。二発目が脇腹に食い込む。身体がかっと熱くなった。痛みで意識が揺れる。いつの間にか地面が近くなっていた。四つん這いになって身体を支えるが、今度は蹴りが飛んできた。左肩から激痛と乾いた音が響いた。左腕に力が入らなくなる。身体を支えなくなり、地面に顔がついた。冷たく硬い感触は悪くない。そう思った次の瞬間には髪を掴まれ引き起こされた。
「謝るか? 聞いてやるよ。お前の懺悔を」
男は短刀を抜いた。傭兵が好む種類だ。追い詰めたことに満足して余裕の笑みだ。エリオットが右手に握っていたサイコロが落ちた。握力はもうない。地面に転がり、出た目は確認できない。目は霞み、足元が揺れる。
「悪かった。謝る。謝るよ」
エリオットは喋るのも辛かった。呼吸の度に喉が焼けるようだった。
「それで済むと思ってるのか?」
「もう金は返したろ」
「お前は名誉って言葉を知らないのか?」
男はエリオットを弄んだ。壁に叩きつける。エリオットは力なく倒れこんだ。
「知ってる」とエリオット。
「じゃどうなるかわかるよな。お前にやられっぱなしじゃ俺も示しがつけねぇんだ」
男は短刀をこねくり回して遊ぶ。「死んでくれ」
終わった。
「待て。金を払う。もっと払う。幾らならいい?」
「お前の命は幾らだ? 自分で値段つけてみろ」
「三グルテンしかない。これしか出せない。家にある。お願いだ。許してくれ」
「そんな金、半月も持たずに使っちまう」
「俺は一ヶ月暮らせる」
「つまんねぇことゴタゴタ抜かしてんじゃねぇよ」
顔面を蹴られた。すぐに鼻から血が吹き出た。口に入ると鉄の味がする。
「ここで死ね」
男は短刀を振りかぶった。
「え――」
エリオットの前で、男はひっくり返り天を仰いだ。驚く。現実が逆さまになったのかとエリオットは思考停止に陥る。状況理解に苦しんだ。
「御機嫌よう、エリオット」
ひっくり返った男の先に女が立っていた。「探したぞ」
「アンナ――」
エリオットには目の前で起きたことが把握できなかった。だがそんな彼を察してかすぐにアンナと呼ばれた女は「私がやった」と続けた。
「あんたが?」とエリオット。
黒髪、切れ長の黒い瞳、薄い唇と白い肌と長い手足。母譲りだという東洋の鉄扇を片手に広げる。それがアンナだった。
「私は強い。だから高利貸しを女手一つでやってる。わかるか?」
男が立ち上がる。アンナとエリオットの間だ。アンナの姿が男の身体で隠れる。
「このアマ、調子乗りやがって。俺に喧嘩売ってんのか」
啖呵を切る男の手が伸びた。その先には短刀。
「売ってんだよ、馬鹿」
アンナは跳躍。男のシルエットを飛び出し、空へ。そのまま身体を反転させて背後に降り立つ。男は後ろに回られたことに対応し、身体を中心にして円を描くように短刀を振り回した。アンナは身体を逸らし間一髪でかわし、仰け反らせた分を戻す反動を利用し、縦回転。踵を男の脳天に突き刺した。男は頭を抑えて、よろけると、少しずつ距離を取った。
「鼠か。ちょこまかと」
「まだやる気か?」
鉄扇を畳む。
「お前ら二人とも俺が殺す。女、お前はよく見ると綺麗な顔してんな。俺が犯してから殺してやる」
「状況がわかってないなら、しょうがない」
「偉そうに口利きやがって」
「そっちだ」
アンナは早かった。一瞬で距離を詰め、相手の懐に潜り込んで鉄扇で金的。男は蹲る。そのまま流れるように腕を締め上げた。男の手からは短刀が落ちる。
「折るぞ」
一言だった。腕はきまっている。あとはアンナのさじ加減だ。
「離してくれ」と男。
「エリオットは私の客だ。手出しするな。わかったか?」
腕を曲げる。
「わかった。わかった。手出ししない」
男は繰り返した。顔には痛みが浮かんでいる。
「雑魚が」
アンナは腕を解放した。顔が青ざめ脂汗が吹き出た男はアンナに睨みを利かす。「ったく。うるさいんだよ、ほらどっかいけ」
アンナは男の背中を蹴り出した。痛む腕を支えながら男は路地から出てこうとする。
「おい、待て」
アンナが男を呼び止めた。
「なんだよ」と男。
「お前、私の喧嘩を買ったんだよな? 金を置いてけ。持ってるもん全部出せ」
「クソっ」
「やっぱり腕が折られたいのか?」
アンナは近づき、鉄扇で男の顎を撫でる。挑発だ。
男は黙って硬貨の入った財布をアンナの足元に落とした。
「拾え。極悪人が」
精一杯の抵抗に見える。
「祈るだけの善人よりずっといい」
アンナは足元の財布を拾って、埃を太ももで叩いた。
「覚えてろよ」
捨て台詞を吐いて男は消えた。
「馬鹿な生き物だ。知性を感じないな」
アンナは鉄扇で顔をあおぐ。細い黒髪がふわりと揺れた。
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