7-2
朝日と共に宿屋へ辿り着いた。街道沿いの小さな店だった。扉を開き、中へ。一階は居酒屋だ。典型的な旅籠だった。
夜通し賭け事に興じていた男たちが一斉にエリオットとアンナを見た。朝特有のけだるさの混じった重い緊張感が漂う。
「溺れたのか? あんたら」
店の主人が話しかけてきた。先ほどの盗賊たちと対して変わらない雰囲気だ。他の客たちも上品な連中とはいえない奴らばかりだ。好奇というよりも敵意に近いような視線を二人に向けていた。
「泳いだんだよ」
アンナは店内を見渡す。エリオットも観察をする。空いたワインのボトルとグラス、歯型が残った食べかけのパンとチーズ、油が白く固まった肉汁や穀物がゆが残る皿、色が変色したリンゴの欠片、床は染みと食いカスだらけ。
「外の馬が欲しい。二頭だ」とアンナ。
突然のことにエリオットはアンナを見る。堂々としたものだ。
「それは売りもんじゃねぇよ」
テーブルでサイコロ遊びをしていた男が言った。白髪交じりの長い髪と蛇のような目をした長身の男だった。「俺と弟の馬だ」
弟はスキンヘッドの太った男だった。隣に座っている。
「誰の馬かは聞いてない。それが欲しいと言ったんだ」
アンナは盗賊から奪った財布を、長身の男の足元に投げた。長身の男は財布を拾い、中身を確認する。
「五グルテン?」
馬の相場はピンきりだが、最低でも十五は必要だ。エリオットは心の中で天を仰いだ。トラブルしか想像できない。どうして何もかもが喧嘩腰で始まるのだろうか。「俺の馬はこんな安かねぇ。六十はいるな」
「それは代金じゃない。賭け金だ。お前らサイコロやってんだろ。お前らから六十稼ぐ」
「勝算はあるのか?」
エリオットは耳打ちした。
「ある」とアンナ。
根拠のない自信だとわかった。
「俺が行く」
「お前の勝算は?」
聞き返される。
「あんたよりずっと確実だ。サイコロがある」
「お前にしては頼もしい返事だ」
アンナはエリオットを見た。「任せたぞ」
「おい、さっさとつけよ」と長身の男が言った。向かいの椅子が空いている。
「今行く」
エリオットが向かう。
「あの女じゃないのか」
「あいつは飾りだ。優雅な鷹だから気にするな」
こういうのは舐めらてはいけない。会話で負けていたら勝負にも勝てない。
「ルールは?」とエリオットが聞く。
「あんたらぁ見ねぇ顔だし、うちのルール説明するのも面倒だから単純なのでいいだろ」
「悪いな」
「ルールはこうだ。二つサイコロを投げて、同じ数を出したら勝ち。勝ったほうが相手の賭け金を貰う。賭け金はあんたらが決めろ。金がないみたいだからな」
「わかった」
エリオットは自分の財布も取り出した。盗賊から奪ったもので中身がどれだけ入っているかもわからない。十二グルテンだった。結構持っている。貧乏暮らしなら三ヶ月は持つ金額だ。「さっきの五グルテンと合わせて、合計十七グルテン。馬は二頭で幾らだ?」
「一頭六十と言ったろ、もう忘れたのか」
「あれにそんな価値はない。三十だ」
「五十五だな」
控えめに見てもあの馬は最低の手前だった。五十五なんて価値はない。
「三十だ。どうせ俺らが負けるんだろ? 値段だってどうでもいいだろ」
「四十五だ」
「二頭合わせて八十でいいな」
「計算合ってねぇだろ」
「二頭いっぺんに買うんだ。少しはまけろ」
「二頭で九十だ」
「エリオット。それでいい。九十でまとめろ」
アンナから指示が出た。
「鷹が喋ったぞ」と長身の男は何故か楽しそうだ。
「わかった。条件を飲む。それで俺たちの賭け金は十七。この勝負に勝ったら三十四グルテンだ。もちろんまだ馬の代金九十グルテンには足りない。残りは五十六グルテン」
「計算できるじゃねぇか」
「話を最後まで聞け。俺の剣を賭ける。これはボロだがニュルンベルクのヴァレンシュタイン卿に持っていけば相当な金になる。余裕で百グルテン。お前らの才覚次第では五百まで化ける」
この聖剣には価格がつけられない。それくらいに価値があった。だがまずは相手を説得させることが先決だった。エリオットは現実的な値をつけ長身の男に話す。
「これで残り五十六グルテンを補填する。いいな?」
「一発勝負で決めたいってのか?」
「あんたら夜通しサイコロしてたんだろ。俺からの配慮だよ」
「生意気こきやがって」
この勝負はエリオットの持っているイカサマサイコロを使うタイミングが重要だ。「こんなボロが五百になるか?」
「信じてくれとしかいえないな」
「俺は博徒だ。そのボロの可能性に賭けるのもおもしれぇ。あんたら訳ありみたいだし、協力してやるよ。まず俺からでいいか?」
長身の男が言った。
「その前に確かめさせてくれ。そのサイコロだよ」
「あぁいいぞ」
エリオットはテーブルの中央にあるお碗に二つのサイコロを放る。二と一。もう一度、放る。今度は五と三。
「大丈夫だ」とサイコロを返す。
「じゃ勝負開始だ」
「すぐに追い詰めてやる」
エリオットが答える。空気が張り詰めた。長身の男はサイコロ握り、息を吹きかけた。
「いくぞ」
サイコロが放たれる。お椀の中で二つのサイコロがお互いを追いかけるように回転する。エリオットは見つめながら息を呑んだ。次第に勢いが弱まる。
「おぉ」
歓声が上がった。
「一と一だ。あんたが追い詰められたな」
誤算だった。
後攻のエリオットが二つの目を合わせなければ、勝負は終わる。だがここでイカサマサイコロは使えない。ここを凌いだら次はやつのターンだ。イカサマをしたことがバレてしまう。
「どうした? 振れよ」
挑発だ。エリオットはサイコロを握った。イカサマサイコロとのすり替えはできない。通常なら右手で普通のサイコロを握り、それに願掛けで息を吹きかけるときイカサマサイコロを持っている左手を添えてやって、その瞬間にすり替える。これがエリオットの手口だったが、それすらも無意味だ。相手に怪しまれないようにと後攻を選んだのは賭けだったが、そこに負けてしまった。
天に全てを任せるしかない。
長身の男がやったように息を吹きかけてから、サイコロを放った。
お碗の中で二つのサイコロが回転する。瞬きは出来ない。無意識裡にエリオットは呼吸を止めていた。
異常なまでの重圧。胸の鼓動が耳の裏まで聞こえてくる。身体が一気に熱くなった。
サイコロの回転が弱くなる。止まった。
「三と四だ」と長身の男。黄色い歯を見せて笑う。
終わった。全てを失った。
エリオットはサイコロの目を見つめた。変わるはずもない。途端に呼吸が荒くなった。自分は馬鹿だ。
「おい、待て」
アンナの声だ。それがなかったらエリオットは意識を失っていたかもしれない。
「なんだ、勝負をなかったことにしろってのか」
長身の男は財布と聖剣に手をかけている。
「私を賭ける。これから一生お前の奴隷になる。私の身体を好きにしていい」
他の客の口笛が聞こえた。
「お前の女だ。いいのか?」
長身の男は笑みが止まらないといった感じだ。太った男は舌で唇を舐めている。
「あんたはどうなんだ」とエリオット。
「俺はもちろんだ。あんな生意気な女をこませると思うとゾクソクするね」
「よかった。こっちに躊躇う理由は一つもない。もう一勝負だ。こっちが勝ったら馬二頭、金、剣を返してもらう」
「いいぜ。どうせ俺が勝つ」
こいつは馬鹿な博徒だ。エリオットにはわかった。ただ運が向いているだけ。だが相手にするなら、そういう奴が最も厄介でもある。運は最強だ。
「放れよ」
先攻を譲った。度胸のいることだが、エリオットは自分を試したかった。
長身の男はさっきと全く同じ動きで、サイコロを握り息を吹きかけた。
サイコロが放たれる。
「六と五――。惜しかったな」
長身の男は余裕だ。「おい、ビール持ってきてくれ」
主人が奥からビールを運んできた。エリオットはサイコロを握った。
「乾杯は一人じゃ出来ないぞ」とエリオット。
「いいんだよ。飲めりゃ」
長身の男はビールを煽った。
エリオットは祈るようにして両手を合わせ、握っているサイコロをイカサマ用とすり替える。じっと空のお椀を見ながら息を吹きかけた。
「いくぞ」
気づかれていない。
長身の男は何も言わない。ビールを頼んだのが運の尽きだ。
サイコロを放る。回転し、ゆっくりと止まった。
「六と六だ」
エリオットは長身の男を見つめる。あとはこのイカサマサイコロの回収だ。
場が静まり返る。
「馬は頂くぞ」
アンナが大声で宣言した。
「ふざけんな、このアマ。馬はやらねぇぞ。こんなのは認めねぇ。イカサマだ」
長身の男は怒りに任せて立ち上がった。確かにイカサマだ。だが勝った。長身の男はアンナに詰め寄る。注目が向いた。エリオットはその隙に素早くテーブルのサイコロをすり換えた。
「おい、お前何やってる」
どうやら見られたらしい。周りにいた客の一人がエリオットに言った。
「ケチつけんな、酔っ払い」
アンナはエリオットのすり替えを目撃した男にワインボトルを投げつけた。男は頭を抱えて倒れる。
開戦の合図だった。
長身の男がアンナの襟を掴んだ。アンナは手首を返して、長身の男を踊らせた。苦痛で顔を歪ませている。そのまま足をかけて倒すと顔面を蹴った。
「どうしてこうなる」
エリオットは叫んだ。周りの観客がエリオットに掴みかかった。エリオットは椅子を振り回して応戦する。太った弟がアンナに突っ込んでいる。
「わかってたくせに」
跳躍し天井の梁を掴んで、突っ込んできた弟をかわしたアンナ。後ろに下りて、ケツを引っ叩く。馬鹿にされた太った弟は逆上し顔を赤くした。壁にかけてあった閂を持つ。太った男が振り回すと、木の棒のよう軽さに思えた。
「うぉら」
太った弟が閂を振り下ろした。アンナは半身になってそれをぎりぎりで躱す。いつもの余裕の笑み。閂をなぞるようにして距離を詰めて拳を太った弟の鼻に叩き込んだ。鼻は急所だ。太った弟はよろける。距離を詰められたので、長い閂では攻撃がし辛い。太った弟は閂をすて、アンナを掴もうと両手を伸ばした。
「のろまめ」
アンナは太った弟の腕を掴んで、そのまま出っ張った腹を足場にして肩へ飛び乗った。くるりと回転して肩車のような状態になり、腕の関節と首を両脚できめて絞まりあげる。
逆上して赤くなっていた顔が、呼吸困難でさらに赤くなっていった。太った弟の腕は折れ、白目を剥き泡を吹き始める。
「アンナ、もういい」
「指示するな。命令するのは私で従うのはお前だ」
アンナは太った弟を片付けると、エリオットの応戦に入った。エリオットとしては助かった。イカサマをする度胸はあるが喧嘩はまだまだ弱い。椅子を振り回して、自分に相手を近づけないように必死だったエリオットの前で、敵の懐に入り込みぶっ飛ばしていくアンナの姿は驚異的だった。
三人も倒せば、他の客も戦意を喪失する。場は一時の狂気を忘れ、酔いが醒めたように静まり返る。この中で息を切らせていないのは、最も強いアンナだけだ。
「もういいだろ」
アンナの問いに誰も返事をしなかった。居酒屋は荒らされている。主人の顔を見ると、泣き顔だった。無言だが懇願している。
「馬は約束どおり貰っていくと、その兄弟に伝えておけ」
アンナは床に散らばった皿、ワインボトル、樽、残飯を足で払いながら扉へ向かう。エリオットも続いた。「あとな、私たちを追うな。通報もするな。わかったな。今日のことは一切忘れろ」
また返事はなかった。
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