2-5

 エリオットは一旦、家へと戻った。

「あら、お兄様。今日はもう戻られたの?」

 入ると、妹のカテリーナが料理をしている最中だった。

「夕食の準備か?」とエリオット。

「えぇ。市場で買ってきた牛肉です。パイにしようかと思って」

「どこで買った? 噂だとニクラウスの屋台じゃ牛肉だと言って犬の肉を売ってるらしい」

「その噂は知ってます。私が買ったのはキリアンのお店です」

「さすがだよ。カテリーナ、お前はきっと良い嫁になる」

 妹は自分と違い聡明だ。この先も大きな過ちを犯すことはないだろう。

「お仕事には戻られますか? 話を聞いたのですが、フラウエン教会で何か騒ぎがあったとか」と言ったところで、カテリーナがエリオットのシャツについた血に気づく。

「お兄様、それ。何かあったんですか?」

「ちょっと怪我人を助けたんだ。そのフラウエン教会の騒動だよ。俺は大丈夫。心配いらない」

「それなら。けど一体何があったんでしょうか」

 妹は、アングストマン家の宿命について何も知らない。魔術師がいて死体を操ったなんて話しても、きっと信じてはくれないだろう。

「俺もよくは――。ただ大きな騒ぎにはなっていたな。夢中で怪我人を助けたよ」

「疲れましたか? お風呂屋さんに行かれますか?」

「疲れたけど風呂屋はいい。ただ少し旅に出ることになりそうなんだ。荷物のトラブルでケルンまで行かなくちゃいけなくなった」

「亜麻糸の件で?」

「どうやら仕事に就いてる女性組合が、最後の最後になって俺の出してる価格が安すぎるといちゃもんをつけてきた。向こうの大青で染めた亜麻糸は売れるもんだから図に乗ってるんだろうな。手紙じゃ埒が明きそうもないし、今後も取引を続けていくつもりだから、一回会って話をつけてこようと思う」

「いつ発たれますの?」

「それが今夜だ」

「食事はされますよね?」

「もちろん。食べてから発つ」

「随分、急な知らせです」

「仕事が忙しいのは良い事さ」

 だがエリオットが経営しているラウファー商会は、その言葉と裏腹に、暇ばかりで明日にも潰れてしまいそうだった。

「すぐに戻られますよね? お兄様」

「ケルンだと早くても再来週だろうか」

「正直寂しいです」

「向こうに着いたらすぐに便りを出す。お前のために帽子も買ってくるよ」

「本当ですか。嬉しい」

「必ず買ってくるよ。それじゃ着替えてくるから」

 エリオットは二階へあがった。


   ■


 終業を告げる教会の鐘が鳴った。陽は傾き、エリオットの家に差し込む光も赤みを帯びている。

 テーブルには料理が並んだ。トマトと豆の煮込みに牛肉のパイ、ニンニク、チーズの切れ端、それとビールだった。

「どうそ召し上がれ」とカテリーナ。

 二人だけの食卓だ。

 エリオットはボウルに貯められた水で手を洗い、牛肉のパイを掴んだ。香辛料は高いので、普段は節約している。味が薄いのはいつものことだ。

「おいしいですか?」

「もちろんだよ」

 エリオットが答えると同時に家の扉が叩かれた。

「誰でしょうか」

 カテリーナが立ち上がり対応しようとする。

「いや、俺がいくよ」

 エリオットはそれを制して、手拭いで指の油を落としてから扉に向かう。誰が来たのかは検討がついていた。

「なんだ、間抜けか」

 扉を開くとアンナが立っていた。相変わらずの格好。ズボンにシャツ。男装でもしているかのような姿に鉄扇。「準備は出来たか?」

「今、食事中だ」

「それは知らなかった。じゃ帰れってことか?」

「悪い。謝る。ほら、これでいいんだろ」

「その顔、ぶん殴ってやろうか」

「どなたですか?」

 二人の会話を遮るカテリーナの声。

「アンナさんだよ」

「まぁアンナ様」

 カテリーナがやって来るのがわかる。

「どうして妹はあんたが好きなんだろうな」

「人間的な魅力に乏しい兄と比べれば、どちらが優秀かは一目瞭然。どうする、食べていくのか?」とアンナ。

「そんな風に言うな。すぐ出るよ。一刻も無駄には出来ない、だろ」

「後ろを見ろ」

 エリオットが振り返ると、カテリーナが後ろにいた。

「アンナ様。どうぞ中へ入ってください。今、丁度食事をしておりましたの。ご一緒にいかがですか?」

 カテリーナの言葉には裏がない。その言葉通り、彼女はアンナを心から歓迎していた。

 エリオットは後頭部を掻きながら、「カテリーナ」と言った。

「ちょっと悪いんだが、俺は今すぐにでもケルンに行かなくちゃいけなくなった」

「もしかしてアンナ様と?」

「そういうことだ。ケルンの商品には彼女も金を出してるんだ。権利を半々で持ってる」

「けど今夜は一緒に食事をするお約束でしょう?」

「必ず帽子を買ってくるよ」とエリオット。

「すまんな。カテリーナ。兄を少し借りるよ」

 エリオットの腰にアンナの手が回る。エリオットは何が起きたのか、と一瞬理解できない。アンナを見ると、カテリーナに意味ありげな笑みを浮かべていた。

「まぁ、お兄様――。あ、そういうことでしたの――。私としたことが無粋なことを言ってごめんなさい」

 カテリーナの顔が真っ赤に染まった。どうやら何かを誤解したようだ。

「それじゃエリオット。私は外で待ってるから支度をしてきて」

 アンナは意味ありげに囁いた。

「アンナ様がお兄様と。あぁ、なんか夢のようです」とカテリーナ。

 エリオットは妹がこうなってはもう止められないのを知っている。むしろ何かを言えば、それが何であろうと火に油を注ぐようなものだ。旅の支度の為に、彼はすぐにその場を離れた。

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