第10話 月夜の社・四
「その女を渡せ……それは私のものだ…………!」
「私は貴方のものなんかじゃないわ! だから消えてって、何回言えばわかるのよ!」
地を這うような声を、
「あんたの部下にも言ったけど、この女はあんたと一緒になる気なんてねえんだってよ。いい加減に現実を見ろっての。みっともねえったらありゃしねえ」
「黙れ!」
「っ危ない!」
遠慮のない言に激昂した天狗が腕を振るい、風の刃を何本も御行に向けて放った。それを御行はかわすが、天狗は風の刃で執拗に御行を狙う。気づけば御行は樟葉のそばを離れてしまっていた。
こうなれば、天狗の狙いは嫌でもわかる。御行は顔色を変えた。
天狗が樟葉めがけて飛んでいく。
かくなる上は太刀を投げるしかないと、御行は太刀を大きく振りかぶろうとした。
――――――――が。
天狗の爪が樟葉に届く刹那、その背に黒翼を縫い止めるように矢が突き刺さった。天狗の目が大きく見開かれ、鋭い爪が樟葉の細腕を掴み損ねて空を切る。
「外道如きが、樟葉様に触れるな!」
弓を放った姿勢のままの若者の口から、憤怒の声音が発せられる。形相はすさまじく、睨む眼差しそのものが敵を射抜く矢か刃のようだ。
がくり、と天狗がその場に膝をついた。あれほど頑健で太刀も矢も受け付けなかったというのに、驚異的な効果である。
たった一本の矢が突き刺さるだけでこのありさまなのは、弓にまといつく聖なる気配によるものに違いない。正月の飾り物とはわけが違う、本物の破魔弓なのだ。先ほどは持っていなかったのだが、こちらへ向かう際に用意したのだろう。
御行は駆けつけると樟葉を後ろに下がらせ、太刀を構える。春日も天狗に太刀を向けた。
「くそ……人間どもが…………!」
「お前だって元々は人間だったんだろうが。外道に堕ちたくせにして、人間を見下すなっての」
血と共に力も砂に落とし、それでも意志だけは失わず、天狗は自分を邪魔する人間たちを詰る。敵が弱っているのを見ても太刀を下ろさず、御行は鼻で笑った。
相手の拒絶を無視して己の意のままにしようとするこの執着は、道を外れて堕ちた人間の末路たる天狗に相応しい。人間の醜い部分を凝縮した姿だ。
――――もしかしたら、自分や他の求婚者たちもなっていたかもしれない姿なのだろうけれど。
自嘲の思いは心の内に収め、御行は天狗を見据える。
「そんなに傷ついてるんだし、もう諦めて帰れよ。でもって二度とこいつに近づくな。いい加減、諦めるってことを覚えろよ」
「ふざけるな……! その女を諦めるのは」
御行の忠告にそこまで反論して、天狗は突然言葉を途切れさせた。目と口を見開いた身体が傾ぐ。御行が驚いている間に、砂浜にどさりと倒れた。再び太刀を身に受けた天狗は倒れたまま、ぴくりとも動かない。
「樟葉様は我ら
倒れた天狗を見下ろし、冷ややかに、憎悪を滴らせた声音で吐き捨てる。御行は内心で震えた。
侮蔑と憎悪をたぎらせ異形を見下ろしていた目が、不意に御行のほうを向いた。蔑みのない、けれど敵に向ける眼差しが御行を見据える。
「……樟葉様を守り、天狗を倒す助けとなったことには感謝する。だがそれと、樟葉様をさらい、神鏡を盗んだことは別だ。今すぐ神鏡と樟葉様を返すなら、助命の嘆願くらいはしてやる。――――大人しく縄につくがいい」
「うわー、死罪にする気満々じゃねえか」
助命の嘆願をすると言うものの、助けてもらえる気がまるでしない。絶対他の理由で俺たちを恨んでるよなこいつ、と御行は口の端をひくつかせた。これはこれで、天狗になる前の人間ではないだろうか。
私兵団の兵たちが着々と集まってくる中、御行は若者にも知られないようにそっと、後ろ手で麻也に合図をした。春日と目を見交わす。
御行が樟葉の手を握ると、若者の目に激しい炎が宿った。
「賊が、樟葉様に気安く触れるな!」
「だから、そこの天狗にも言ったけど、こいつは俺の仲間だ。樟葉なんて名前の巫女じゃねえよ」
それに俺、かぐやに惚れてるし。御行は胸中でそうこぼし、樟葉と繋いだ手を持ち上げて若者に見せつけた。
「だってそうだろ? そんなにお偉くて強い巫女様なら、この仮面をとって、俺と繋いだ手を離してるだろ? ――――人違いだ」
「たわけたことを! 人違いのわけがない! 私が間違うはずがない!」
そう叫び、若者は樟葉に向いた。
「お戻りください樟葉様! 樟葉様が行方知れずとなってから、皆御身を案じていたのです!」
弓を御行に向けながらそう嘆願する表情は、必死そのもの。心から樟葉の無事を祈り、帰還を願っていたのだと知れた。
彼の背後に駆けつけた兵たちが、春日や御行たちに矢を向け太刀の切っ先を向ける。眼前の者たちを見回し、御行は逃げる契機を窺った。麻也はすでに舟を出す準備をしているだろう。後は全員で乗り込み、逃げるだけだ。
「っ……違う! 私は……違うの……!」
御行が重ねた手にぎゅっと力が込められたかと思うと、耐えられないといったふうに樟葉が声を上げた。御行が見下ろすと、隣の樟葉は仮面を外し胸元を抑え、苦しそうに顔をゆがめている。
「心配と迷惑をかけてごめんなさい。私はその天狗にさらわれて、先日ようやく逃げて、この人たちに助けてもらったの。……でも今は帰れないわ。
「……樟葉様?」
「ごめんなさい…………今は話せないけど、必ず戻るから…………だから今は行かせて…………」
「樟葉様、一体何を仰っているのです……?」
懇願する樟葉の顔が泣きそうになる。若者もまた彼女を理解できず、困惑に瞳を揺らした。
当たり前だ。天狗にさらわれてようやく戻ってきた巫女が、賊と一緒になって御神体である神鏡を盗んだ挙句、帰れないと言うのだから。理解できなくて当然だ。
戸惑いと動揺が広がる中、御行はもう一度春日に目をやった。視線があい、意志が疎通したと確信する。
罪悪感と決意で揺らぐ樟葉の心が鎮まるよう、御行は細い指に絡めた手に力を込めた。樟葉がはっと息を呑む。
「さあて、話は済んだだろ? そろそろ行かせてもらおうか」
言うや、御行は太刀を強く握る。御行の動きに気づいた若者が、御行に太刀を向ける。巫女を捕らえる賊に立ち向かおうとした。
「――――――――っ!」
気配を殺し、若者に一足で近づいた春日は、若者のみぞおちを空いた手で打った。御行と樟葉だけに意識を集中させていた若者は抵抗もできないままくず折れる。一度受け止めてから身体を砂浜に置いてやったのは、春日の恩情だろう。
それを見届け、御行は太刀を思いきり振った。太刀筋は波となり、春日と若者に当たらないよう計算されたそれは砂浜に直撃し、兵たちの眼前の砂を舞い上げて驚かせる。
身をひるがえし、太刀を鞘に収めた御行は樟葉を舟へ乗せた。先に乗った麻也は櫂を樟葉に渡し、自分は印を切る。詠唱がただちに完成すると、砂浜に春日と兵たちを隔てる砂壁が築かれる。
「せえの!」
声と共に、御行は思いきり舟を海へ押した。海に浮かぶまで押して、舟に乗り込む。春日も後にその続く。
砂壁の横を回った兵たちが矢を飛ばしてくるが、そんなものは御行の技量であれば斬ることは容易い。神官は御神体を奪う前にあらかた戦闘不能にしていたためか、人形を遣わしてくることもなかった。
春日が漕ぐ小舟はみるみるうちに砂浜から遠ざかり、やがて矢も絶える。とりあえずは逃げきったと、御行はようやく緊張を解いた。
樟葉を振り返ると、彼女は舟の縁に手をついて俯いていた。きつく唇を噛んでいて、今にも血が流れそうだ。しかし、言葉をかけるのはためらわれた。本殿で彼女の素性を疑った麻也も、彼女を呆れたような目で見下ろしはしても、問いつめない。それを御行はありがたいと思った。
不意に、樟葉の身体が不自然に震え、沈んだ。そのまま船縁を越えてしまいそうになり、御行は慌てて腰に手を回す。
「おい、大丈夫か?」
声をかけてみると、樟葉はのろのろと顔を上げた。その顔色の悪さに、御行はぎょっとする。
「樟葉、お前、すっげえ顔色悪いぞ? 平気か?」
「ええ……平気よ……平気…………」
うわごとのように樟葉は答え、樟葉はうつむく。青ざめた顔が黒髪に隠れ、見えなくなる。それでも、悲壮な空気は隠しようがない。
当然か、と御行は哀れむ。どういう理由があるにしろ、自分を大事にし心配してくれている者たちを裏切ったのだ。もしかしたら彼女は、あの団長らしき若者とは肩書以上の関係なのかもしれない。
懐に入れた桐箱を取り出し、御行は真っ黒な行く手を見る。月が照らしていても、島影はほのかにも見えない。大渦も、音でさえその存在を知らせてはくれない。
男三人で適度に交代しながら濃いで行けば、途中で迷わない限り、朝には島へ到着できるだろう。御行は星へ目をやり、方角と星の位置を確認した。
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