第17話 神の息吹・二

 まとう空気、表情のない面差し、立ち姿。そのどれもが、御行みゆきがこの数日の間に見てきた樟葉くずはのものではない。いや、どんな人間とも違う。畏怖と警戒で竦むほどのこの力は、人間が持てるものでは到底ない。少なくても、こんな種類の力を放つ人間を御行は人間と認めない。


「……我が形代を清めよ」


 口を開いた樟葉は、御行にそう告げた。彼女のものであるのにそうだとは思えない厳かな声音に、御行は息を呑む。

 麻也まやが一歩、歩みでた。その横顔は、御行と同様に畏怖が浮かんでいた。


「……もしかして、貴女は陽女神か」


 問うと、いかにも、と樟葉――陽女神は鷹揚に頷く。


「この島へ人の子を導く我が形代は邪気を受け、穢れた。今一度清めよ。全き清らなる姿にせよ」

「形代って……」


 知らない言葉だ。御行が眉をひそめると、この場合は神鏡のことだよ、と麻也が説明した。


 御行はようやく、立浪たつなみ神社から盗んできた御神体のことを思い出した。まさかと思い、麻也の横に流れついていた桐箱を慌てて見る。――――紐が解けて桐箱は開けられ、金糸の刺繍がされた小さな座布団と、文様が細工された銅鏡が砂浜に無造作に転がっていた。


 不意に、樟葉の身体が沈んだ。彼女の身体が砂浜に倒れ伏したのを見て、御行は神の気配が失せたことに安堵する間もなく、彼女に駆け寄る。


「おい、樟葉、しっかりしろ! 樟葉!」


 身体を抱き起こし、さっきよりは強い力で揺さぶるが、樟葉はぐったりと目を閉じたままだ。今にも根国ねのくにへ行ってしまいそうなくらい、顔が青ざめている。さっき見たときは、疲れているようでもここまでひどくはなかったのに。


「くそ……! 憑依するなら麻也にでもすりゃよかったんだよ」

「俺じゃ無理だよ。神が依り憑くのは、清い巫女か神職でないと。――――そういえば春日は? 見当たらないけど」


 と、麻也は砂浜を見回して言う。まだ彼には春日かすがのことを教えていなかったのだ。


 焚き火に使えそうな木を拾いに行かせたことを説明した御行は、樟葉を麻也に任せ、上衣を着直すと自分も森の中に入った。


 入ってすぐ、御行はやはり、森はただの森ではなかったと思い知らされた。

 拒絶されている。木に、草に、地面に。森のすべてが御行の侵入に対して不快を示し、今すぐ帰れと怒っているのを、御行は全身で感じた。頭の中を生温かな手で撫でられているような、回転する床の上を走らされているような不快感が絶えず、軽い目眩と吐き気がする。


 春日はこんな不快な森をどこまで行ったのか。不安と後悔に駆られた御行は、木の枝よりも春日を探した。あまりここにいないほうがいい。そんな気がしてならなかった。


 あちこちを捜し回ってどうにか春日を見つけ、御行は砂浜に戻った。日向に横たえられた樟葉はまだ目が覚めておらず、森の近くの日なたに横たえられたまま、胸を上下させている。日陰に移動させていないのは、服が少しでも早く乾くようにと麻也が考えたからのようだ。


 樟葉の近くで焚き火をし、衣を乾かしながら、御行は麻也に尋ねた。視線は、麻也が隣に置いた桐箱に向ける。


「それで、神鏡は大丈夫なのか?」

「ああ、ひびは入ってないし、その点は大丈夫だよ。ただ、陰の気が少しばかり付着していてね。陽女神は、それが御不満なんだろう」

「……」


 欄干に積もった薄い埃を見て息子の嫁を説教する姑かよという一瞬の感想を、御行は即座に脳内から抹消した。陽女神は自身の父神と同様、光に属する神だ。わずかな穢れも嫌うのは当然だろう。それに、この神路島へ運んでもらっているのである。文句を言わないほうが賢明だ。


 とはいえ面倒事を増やしてしまったと御行が内心ため息をついていると、小さな呻きが聞こえた。御行は樟葉の傍らに膝をつく。


「樟葉、気がついたか」

「御行……私は…………」

「陽女神に憑依されて、一度気を失ってたんだよ。俺たちが神鏡を穢してしまったから、清めて立浪神社に戻せってさ」


 御行に代わって麻也が端的に説明する。そう、と大きく息をついた樟葉は、ゆっくりと立ち上がった。

 御行は慌てた。歩き出した拍子にふらついた身体を支える。


「おい、どこ行くつもりだよ」

「社へ行かないと…………」

「社って、龍がいるとかいう? でも樟葉さん、身体の具合が悪いんじゃないんですか? 休まないと駄目ですよ」

「早く行かないと駄目なのよ。早く社へ行かないと、駄目なの…………」


 春日が眉をひそめてたしなめるが、樟葉は曲げようとしない。だが、休んで多少ましになったかと思っていた顔色は再び悪化し、今や紙のように白い。死を間近にした人のようで、御行はぞっとした。


「行くったって、そんな顔色で行かせるわけにはいかねえよ。あんた、自分の顔色を見てねえだろうけど、今ものすごくやばい色してるんだぜ?」

「そんなこと言っていられる場合じゃないの」

「あのなあ!」


 御行の腕から逃れようとして、樟葉はまたふらつく。彼女を支えながら、御行はいい加減苛々してきた。こんなに心配しているのに、どうして聞かないのだ。身体の不調だって自覚しているはずなのに。


「これはもしかしなくても、陽女神が憑依したせいかな……?」

「憑依したままだと、都合が悪いんですかー?」


 麻也が顎に手を当て深刻そうに呟くと、春日がこてんと首を傾ける。ああものすごくね、と麻也は頷いてみせた。


「巫女は普通の人より神に近いとはいえ、所詮は人間。神の力をわずかでも身の内に収めて、平気でいられるわけがないんだよ。器が容積以上の水を入れられないのと同じでね。今は憑依が解けているとしても、身体は消耗しているはずだよ。小舟に乗ったときから具合が悪そうだったし、拍車をかけているのだと思う」

「ええ? じゃあ、樟葉さん、このままじゃ死んじゃうんですか?」

「それはわからないよ。でも、この島に座す国生みの大神は、光と生命を司る神だ。守護龍も当然、同じ力を持っているはず。社へ行けば、なんとかしてもらえるかもしれない」


 ぎょっとなる春日に、麻也は淡々とした表情で頷いてみせる。術者である彼が言うのだ。気休めではないだろう。

 御行はきつく眉根を寄せた。


 陽女神の命令や樟葉の体調、森のどこに社があるのかわからないことを考えると、今すぐ社へ向かうのは無謀だ。御行自身、森を歩きたくない気持ちもある。しかし、神に縋れば助かるかもしれないのだ。樟葉のことを考えるなら、彼女の言葉を信じるなら、先に社を探すのが最良の選択だろう。


「……ったく、仕方ねえなもうっ」


 わしゃわしゃと自分の髪を掻き回した。

「わかったよ。先に社へ行くぞ。でもって守護龍に樟葉を助けてもらって宝玉ももらってから、陽女神の神鏡を清める。それでいいんだろ?」


「こらこら御行。あんまり陽女神や大神の守護龍に無礼な口をきいていると、後で祟られるよ?」

「後でちゃんと御神体を清めて立浪神社に返せば、許してもらえるんじゃないですかー? 今すぐ清めて戻せとは言われてませんし。でも御行様、先にご飯食べませんか? 僕、お腹空いちゃいました」


 さっきお腹が鳴っちゃったんです、と春日は腹を押さえて呑気に笑って言う。それを見て、御行も何だか腹が減ったような気がした。

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