第16話 神の息吹・一

 音がする。絶え間なく、一定の感覚で遠のいては近づいてくるのを繰り返す音。高く低く、いくつもの音が重なり合って一つの旋律のように聞こえる。


 間近で聞こえる音に促され、御行みゆきは重い瞼を無理やりに開けた。大半を砂が占める視界を、重くて不快であちこちがずきずきと痛む身体を旋回させて動かす。腕にかかっていた感触が背に広がり、視界いっぱいに青空が広がるのを見て、自分が砂浜に転がっていることを認識した。


 天原あまつはらの郊外で彰人あきとと別れた日の夢を見た。思い出して、御行は頬をわずかに緩ませた。あれからまだ一ヶ月程度しか経っていないのに、自分の強気や彰人の自信に満ちた態度、負けられないと強く思ったことが懐かしく思える。


 痛みがいい加減鬱陶しくなってきたので左腕に目を向けると、服の袖が赤黒くなっていた。それを見つめていると、だんだんと記憶が速度を上げて再生されていく。月夜の不法侵入、大立ち回り、桐箱、怒れる若者。―――――――――そして。


 御行は目を見開き、がばりと起き上がると空を凝視した。彼方に海岸線が見える海、対岸、島々。緑豊かな山と崖。次いで、島の深い森を見つめる。翼を生やした影がどこかにありはしないかと、全身で気配を探る。

 目を凝らし意識を研ぎ澄ませても敵意や殺意を拾えなかった御行は、大きな息をついて警戒を解いた。袖をまくりあげて、傷を確かめる。それほど深くない傷だが、海水のせいでひどく痛む。


 しかしまずは、仲間の無事を確かめなければ。御行は傍らに横たわっていた太刀を拾い上げると立ち上がり、少し離れていたところに倒れている人のところへ駆け寄った。


「おい、春日かすが、起きろ」


 頬を叩きながら名を呼ぶ。ややあって、大きな瞳が瞬きしながらゆっくりと開かれた。


「御行……様……?」


 かすれた声で春日が主の名を呼ぶ。御行はほっと息をついた。

 身体を起こし、春日はまだぼんやりした目で周りを見る。太刀を手にして、安心したように長い息をついた。額を柄に当てる。


「ここは……?」

「さあな。俺もさっき目が覚めたばかりで、よくわかんねえ。とりあえず、服を絞ってからでいいから、お前は木の枝を集めて火を起こしてくれ。このままじゃ風邪引くからな。やばそうだったら、無理せず戻ってこい。……できるか?」


 尋ねると、春日は即座に頷く。首をぶんぶん振って意識をはっきりさせると、立ち上がった。

 彼が砂浜にすぐ迫る山道のほうへ行ったのを見送ってから、御行は砂浜に首を巡らせた。麻也まやが死んでいるとは思えなかったのでとりあえず放置し、御行は先に華奢なほう――樟葉くずはに近寄る。



 彼女も御行たち同様、ずぶ濡れだった。横を向いているので、身体の曲線がはっきりと浮かび上がっている。細い腰や肩、形の良い脛、少し大きな胸のふくらみは、水を吸って眩く陽光を返すぬばたまの髪を飾りにしているようで、いっそ海神に捧げられた供物の風情すらある。巫女装束であったなら、その色合いは一層強くなっていただろう。健全な青少年らしく、御行はうわ、と内心で声を上げた。

 目の保養とも毒ともつかない肢体から極力目を逸らし、御行は樟葉の上半身を抱き起こして揺さぶった。


「樟葉、おい、無事か」


 春日にしたものよりは幾分か加減をして揺さぶっていると、やがて樟葉は小さく呻きを上げた。眉がかすかに動き、首が小さくひねられる。

 目が薄く開き、しばらくの間そのままでいた後、緩慢な動作で御行を見上げる。


「御行……?」

「おう。ここはどこかは聞くなよ。俺もわからんからな。とりあえず、内海のどこかの島なのは間違いない」

「……多分、神路かんじ島……」


 樟葉がか細い声で言う。御行は目を瞬かせた。


「わかるのか?」

「陽女神が、救ってくれたから…………」

「陽女神が?」


 にわかには信じがたいことだが、そう考えると説明がつく。天狗が放った光線によって船が転覆し、意識を失ってしまったのに生きているのだ。麻也か樟葉がとっさに術で守ってくれたのでなければ、神威が四人を守ってくれたと考えるのが自然だろう。


 それに御行の感覚は、今自分がいる場所が他とは違う異質な場所であることを告げている。特に森のほうから、砂浜よりも濃厚な気配が漂ってきているのだ。国生みの大神の幽宮かくりみやがある島――神路島と言われれば、そうなのだろうと納得できた。


「まあ、巫女なら俺たちにはわからんものもわかるのかもしれねえし……とりあえず、先に服乾かさねえとな。春日が準備をしてくれてるんだが……」


 言いながら森のほうを見てみるが、春日はまだ姿を見せない。焚き火にちょうどいい枯れた枝が見当たらないのだろう。奥へ入っているのかもしれない。


 樟葉も意識が大分はっきりしてきたようだし、そろそろ離れたほうがいいだろう。彼女もあまり居心地が良くないに違いないし、御行としても目のやり場に困る。麻也も、そろそろ様子を見ておかねばなるまい。


 断りを入れて樟葉から離れ、御行は麻也のそばに膝をついた。麻也はすでに意識を取り戻し、身体を起こして頭を振っている。


「おう、気がついたか」

「なんとかね。……あの神社の私兵、天狗を仕留めそこなっていたみたいだね」

「みてえだな。まあ、あれじゃ死んだと思っても仕方ねえけど。砂浜から射られて、今度こそ死んでるんじゃねえかな」


 というより、死んでいてほしい。美女――特にかぐやならいざ知らず、あんな粘着質な妄想系天狗に追いかけられても嬉しくない。

 いい加減、身体にまとわりついている重い布が鬱陶しくなってきた。御行は上半身裸になると、服を力いっぱいに絞った。ぼたぼたと水が砂浜に沁み込んでいく。


「……女性が近くにいるのに、堂々と上半身裸になるのはどうかと思うけど」

「背中向けてるから問題ないだろ」


 と、半眼で指摘する麻也に御行は反論する。呆れたとばかりに麻也は息をつくと、自分は自分で上着だけ脱いで絞った。


 そんなときだった。


 ほぼ同時に、御行と麻也はすさまじい力の気配が降りたことを察知した。その強大な力にぞっとし、御行はばっと振り返る。


「樟葉……?」


 ゆらりと立つ樟葉の異様な居住まいに、御行は動けなくなった。

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