第18話 神の息吹・三

 海の魚を獲って空腹を満たした後、四人は改めて森へ入った。


 入った途端、不快でぶしつけな視線が御行たちにまとわりつき、監視する。御行みゆきたちの一挙一動が数多の視線の監視下にあり、草を踏みわけ、木の枝を押し退けるごとに、感情が視線に混じる。草を踏むな、ここから去れと言っているかのように。強い感情ではないが、無数の拒絶が御行たちを取り囲んでいた。


「うぜえ……全部たたっ斬りてえ……」


 最初は道案内をしようとしたものの、結局は歩かせられないほど衰弱してしまった樟葉くずはを背負って歩きながら、御行は本音をそのまま口にしてしまう。今すぐにでも太刀を振るい、この鬱陶しい視線を吹き飛ばしてやりたい気持ちで御行はいっぱいだった。


「めったなことは言わないほうがいいよ御行。それに、行く前に忠告はしただろう?」

「わあってるよ。さっさと社に着いて、樟葉を楽にしてやりたいだけだ」


 麻也まやに小声で咎められ、ぶすくれた声で御行はそう返した。


 御行とてわかっている。森を支配するこの居心地の悪さは、森に棲まう神霊たちの怒り、社に座す神の存在感だ。立浪たつなみ神社の境内にあった、人工的なうわべだけの清浄さとは根本から違う。本殿の中と同等かそれ以上の聖なる力に満ちた、本物の神域――神の領域なのだ。


 だから麻也は都で出立を決めた御行に、神路かんじ島へ上陸できたとしても無事でいられるかどうかわからないと忠告していた。御行が神路島――国生みの大神やそのしもべたる龍に良く思われないだろうことは、最初からわかっていたからだ。御行は強いが、神霊に敵うわけがない。足を踏み入れることが許されているだけでも、本来は神に感謝すべきなのだ。


 苛立ちに引きずられて、押し殺していた感情が胸を焼き、御行に幻想を見せた。黒い影が何かを引きずっているのが見える。ずるずると、何かが引きずられている音がする。


 引きずられているものが何なのかと意識をそれに集中させようとしたとき、冷たいものに触れられたのを意識が知覚した。瞬間、幻想は消えて御行は現実世界に引き戻される。


 首筋に、冷たい肌の感触がする。背負っている樟葉の頬だ。


「大丈夫……二人とも…………だから………………」


 今にも消え入りそうな弱々しい声が、耳元でささやく。その声を聞いた途端、御行の胸の内に残っていた幻想の影が完全に消え去った。


「……さすが、巫女だね」


 苦笑する声が横からする。御行はじろりと睨んだが、麻也はまるで堪えない。


「よかったよ。君たちが暴れたら、俺じゃどうしようもないからね」

「……」


 声色に混じる色と言外の声を読み取り、御行は押し黙った。


 ちらりと横目で見てみれば、森へ入ってから一言も口を開かない従者の表情は、途中見たものよりもずっとましな――――ようやく人心地ついたようなものになっていた。本当に先ほどまでは、体調が悪いと明らかな様子だったのだ。休憩のときにいたっては太刀を胸に抱きしめ、己を保とうとしていた。


 自分に向けられていた不快な視線に心を囚われて忘れてしまっていたが、御行が苦しんでいたなら春日かすがも同じはずなのだ。御行と春日は同じなのだから。無口だったのも、己を苛むものに耐えようとしていたからに違いない。


 年下の従者が文句も言わず我慢していたのに、年上で主の自分がぶつくさ文句を言っているのはどうにも情けない。恥じ入り、御行は今度こそ口を閉じて歩くことにした。


 森の奥へ進むほどに、侵入者を拒む神霊の怒りの気配は強まっていく。身を竦ませたくなる圧力に、御行は怒りを抱くどころか、次第に祈るような気持ちになっていった。どうか、と祈りの言葉が胸に浮かぶ。首筋に感じる吐息は弱く小さく、短い。


 唐突に、ざあ、と風が御行の背後から吹いた。神霊が吹かせた風は強く、木々の枝や葉を大きく揺らし、御行たちの視界を遮る。両手が塞がっている御行は目を閉じ、風が止むのを待った。耳元で声なき声が帰れとささやくのを無視する。


 どれほどそうしていたのか。やがて、風が止んだ。同時に、あれほど御行と春日を苛んでいた無数の視線と声も、風に吹き飛ばされてしまったかのように失せていた。まとわりつく不快なものがなく、呼吸がとても楽だ。ただ、荘厳としか言いようがない力の気配に圧倒される。


 だが、それよりも。


「社がある…………」


 そう呟いたのは、麻也だったのか春日だったのか。あるいは御行自身だったのかもしれない。


 風が吹く前はただ森が広がっているだけだったはずの眼前に、社があった。狛犬の代わりに龍が左右を守る門扉が真正面にあり、その左右に延びる塀は、どちらを向いても果てが見えない。塀の向こうから覗く、きらびやかな彩色がされた屋根はまるで洛中の大きな神社のようだ。


「到着したわけだけど…………樟葉、これからどうすればいいか、言えるかい?」


 と、御行の背でぐったりしている樟葉に麻也は問う。休むよりも、早く彼女を助けてもらうべきだという判断からだろう。


 しかし彼女が答える前に、門扉のほうから力の気配が二つ、現出した。視線を樟葉のほうに向けていた御行は、ばっと前方を向く。春日がその前に立ちふさがって戦闘態勢をとり、年上の三人を庇う。


 山吹色の門扉を守る鈍色の龍が、鎮座する台座の上からずるりと這い下りていく。台座の上に収まっていた身はぐんぐん伸び、台座を中心にとぐろを巻き、髭の先から鱗一枚一枚まで色づいていく。


 左の龍は銀の身に青の目、右の龍は金の身に真紅の目。真珠色の爪と純白のたてがみの配色は同一だ。ここが鬱蒼と木々が生い茂る中でなかったなら眩しくて見られないだろう姿は、それでも木漏れ日を返して身を輝かせ、国生みの大神の幽宮かくりみやを守護していた。


 赤と青、二対の目が、礼儀を知らない侵入者たちを見下ろす。心の奥底までもを見通さんとするかのような四つの光に御行は怯むが、ここで目を逸らして逃げるわけにはいかない。吐息ごと感情を押し殺すと、彼らに真っ向から目を合わせた。そして口を開く。


「俺の名は御行だ。島へ立ち入る資格もないのに陽女神の神鏡を盗み、森へ入り、平穏を乱したことは詫びる。だが俺たちは、あんたたちに用があって来た。話を聞いてほしい」

『わかっている。海辺でのことは、我らも見聞きした。……その巫女をこちらへ。口を開けて横たえよ』


 銀龍が、性別も年齢もわからない声で言う。その指示に従い、御行は銀龍の前まで歩くと、砂利の上にさっと樟葉の身を横たえた。


 完全に気を失っているらしい彼女は、まるで死人のようだった。肌は変わらず青白く、紅をさす必要のなかった唇も色を失くし、ぴくりとも動かない。かすかに胸が上下しているのを見なければ、こんなに近くで見ても、死んだと勘違いしてしまっていただろう。


 これで、本当に助かるのだろうか。手遅れではないのだろうか。不安がよぎったが、龍の力を信じるしかない。顎を引かせて樟葉の口を開かせると、御行はその場を退いた。


 御行が下がると、銀龍は顔を樟葉に近づけた。そっと優しく、ため息の柔らかさで樟葉に息を吹きかける。

 すると、ぱあんと何かが破砕する音がした。続けてもう一度、今度は金龍が樟葉に顔を近づけて息を吹きかけると、今度は光が樟葉の口から飛び出してくる。絶えず七色に変色するその柔らかな光は、樟葉の身体の周囲を一周すると、揺らぎ、人の姿となった。


 樟葉に少し似た印象の、若い女性だ。黒髪は頭部の片側に結い上げて下ろし、肌をあまり見せないが動きやすそうな身なりをしている。腕には金が散るごく薄い緑の腕輪をはめ、大きな金の耳飾りを揺らしており、そこにいるだけで場を明るくさせる光のような空気をまとっていた。


 半透明だった姿が、実体の質感を得る。女は我が身を見下ろすと、安堵の息をついた。


「やっと出られた……」


 解放を喜ぶ声は、しとやかさよりも芯の強さが勝るもの。樟葉とはまったく違う色だ。

 喜びに浸るのもそこそこに、半透明の女は龍たちに、貴人に対する礼の姿勢をとった。


「国生みの大神に仕える双龍よ。この身を助けていただいたこと、心より感謝します」

『この国の大地に生きる者の生を助けるは、我らが君のご意志であれば』

『それより、天女よ。何故そなたが巫女の身に宿っていたのだ』


 淡々と言う金龍に続いて銀龍が問うと、女――天女は悔しそうに顔をゆがめた。


「天狗の仕業にございます。先日、不覚をとって魂を奪われ、さらわれたこの巫女の身に移されていたのです」

「! そうだ、樟葉は……!」


 天女が哀れそうに樟葉へ目を向けたことで、呆然としていた御行はようやく我に返り、樟葉に駆け寄った。膝をつき、頬に手を当てる。――――温かい。

 それだけでなく息遣いも、苦しそうなものから穏やかなものになっていた。相変わらず肌は青白いが、体温や息遣いが生ある者のものに変わっているのだ。これなら大丈夫に違いないと、御行はほっと息をついた。

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