第30話 幸せだった

 それが、自分が二人に拾われるに至った経緯であると締めくくり、かぐやは語り終えた。


 夕餉の後から始まった、大星おおづつおきなとその妻であるおうな賢木さかき、雑色の権助ごんのすけを自室に呼んでのかぐやの昔語りは長く、語り終えた今は、月が顔を覗かせている。それだけ語ることがあったのだ。語りだせば、次から次へと言葉が溢れた。


 長い沈黙があって、ほうと息をついたのは養父たる大星の翁だった。


「……お前を拾ったときから、いつかはこんな日が来るんじゃないかと思っていたよ。忘れもしない、十六年前のあの日。趣味の細工物を作るため向かった竹林に、黄金に輝く髪をした、この世のものとは思えないほど美しい女人がおった。赤子を抱えていて……わしに、この御子をお育てするのだと命じてな。こんな老いぼれでは、いつ死ぬかわからぬというのに。きっとこの女人は神の使いで、何かやむにやまれぬ事情でしばらくの間だけ、人間に赤子を預けねばならんのだろうと思った」

「……」

「じゃが、わしにはそんなことはどうでもよかった。長年望んでも産まれてこなかった子供が、目の前におる。人であろうとなかろうと、赤子じゃ。…………気づけば、お前を抱きかかえておったよ」


 そのときが来たんじゃな、と翁は瞑目した。


 その後のことは、かぐやも何度も聞かされている。洛北の竹林へ向かったはずの屋敷の主が幼子を抱いて早くに帰宅したものだから、媼も賢木も権助も、皆混乱した。しかも一晩経ってみれば、夫婦の曹司の簀子縁にいつの間にか、大量の金や銀、上質な反物や調度が置かれていたのである。そんなどこかの御伽噺じみた話が、屋敷の外へ広まらないはずがない。かぐやの美貌の噂が一年もしないうちに都の隅々まで広まったのも、彼女は天女か神の子であるという十数年前の噂が下地にあるからだった。


「この十六年、ずっと幸せだったわ……子宝に恵まれず、子供の笑い声がなかったこの屋敷に、女の子の声が聞こえるようになった……人形を飾って、小さな着物を選んで、背丈を測って……あんなに欲しくてたまらなかった時間が続いて……」


 幸せだったわ、と媼も夢を見ているような声で独白する。その表情は諦観を越えて、どこかうつろだ。唐突に訪れた夢の終わりに、魂を抜き取られたかのようだった。

 賢木もこんなのあんまりですと泣く寸前の顔をしていて、かぐやの涙腺も緩んだ。


「姫様。どうして行ってしまわれるのですか。姫様は、御館様と奥方様の娘。殿方に嫁いでもいないのに、どこへ行かれるというんですか。その化け物が姫様を追ってくるというなら、都中の強者と術者を集めてくればいいんです。帝だって、それを望んでいらっしゃるはずです」


 だから行かないでくださいと、賢木はかぐやに懇願する。かぐやはゆるゆると首を振った。


「駄目よ賢木。災いの闇を退けるのは、欠片であっても容易ではないの。しかも、退けたところで私がいる限り、いずれまたこの屋敷を彼らは狙うわ。そして貴女や権助、お父様、お母様が傷つけられ、災いの一部にされてしまうなんて……私は耐えられない。だから、少しでも貴女たちを守りたいの……わかって」

「姫様…………」


 無理やり微笑み、かぐやは物心ついたときから育ててくれた女房に理解を望む。側仕えの女房であるが、かぐやにとっては陽の世での、二人目の母親と言っていい存在だ。大らかに、愛情深く、時には叱ってくれた。権助だってそうだ。屋敷の皆が、陽の世でのかぐやの家族だった。


 自分では無理だと悟ってか、賢木は他の三人に助けを求める。しかし、翁は首を振り、媼は顔を逸らした。権助も困惑を浮かべるばかりで、言葉を発せられない様子だ。


 もうやめなさい、と賢木にかけられる翁の声は力ない。翁と媼の目には、光るものがあった。


「わしとて、ようやく授かり、手塩をかけて十六年も育てた娘を手放したくない。だが、それは月の神とて同じはずなのだよ。月の神も、できるなら娘を御自分で守りたいと願われただろう。それができないから、せめてとわしらに、あんなにたくさんの物を下賜されたに違いない。娘がいつか月の宮に帰る日まで、損得ずくの政略結婚を強いられぬよう、何不自由なく育てられるようにと……その時が、少しばかり早く来てしまっただけじゃよ」

「……」


 もうどうしようもないのだと諭され、望みを絶たれた賢木は、とうとう身体を丸めて大声で泣きだしてしまった。去るのだと決めたかぐやは、言葉をかけてやることができない。泣き声が部屋を越えて庭へ流れる。


 かぐや、と翁は養い子の名を呼んだ。諦めやさみしさや、慈しみでできた声と目で。


「お前がいてくれて、わしらは幸せじゃった。お前はわしらの娘。お前を育てられたことは、わしらの誇りじゃ」

「……っ」


 その瞬間、十六年分の愛情がかぐやの前に現れ、胸の中に溶けた。溶けて代わりに生まれたものはたちまち熱となって全身を巡り、喉をせり上がる。堪えきれず、かぐやは涙をこぼした。


「私も、幸せでした……! お二人や賢木に……この屋敷の人たちに育ててもらえて…………」


 言葉にした途端、様々な思い出がかぐやの胸に去来した。庭の池で水遊びをしようとして怒られたこと、習いたての琴を二人の前で演奏して喜ばれたこと、初めて見る古典をすらすら読んで賢木や翁に驚かれたこと。この屋敷は思い出に溢れている。


 斜め後ろに控える白陽しらひが居心地悪そうにしているのが察せられたが、構えなかった。身の内に在る喜びにも。父神に忘れられていなかった歓喜よりも、養父母や今の生活と別れる悲しみがはるかに勝っていた。


 こんなはずではなかったのだ。陽の世で人間として生涯を過ごすことによって罪を清め、いつか月へ帰る身であることは理解していたけれど、それはずっと先のことで、育ててくれた人たちが生きている間ではなかった。彼らが死に、自分がただの人間として老いてからのことだと思っていた。あまりにも早すぎる別れを、かぐやは嘆いた。


 今宵は新月。満ちるまで、もういくらもない。

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