第五章 約束の夜
第31話 月の怒り・一
人々がどれほど願っても、時は止まってくれない。あっという間に半月が過ぎ、十五夜を迎えた。
主筋と数人の家人しかいない
月からの使者よりも先に屋敷を訪れている招かれざる客とは、屋敷のいたるところに配された精兵たちだ。月神が遣わす使者を、その姉神たる陽女神の末裔であり、
兵団の指揮官である将監の男によると、帝も共に月からの使者を待とうとしたらしい。が、周囲の猛反対にあった上、急ぎの案件が上がってきたため、仕方なく御所に残ることにしたそうだ。
庭でかがり火が燃えているのを、自室の茣蓙に座るかぐやはじっと見つめていた。
薪の間に挟まり燃えている紙は、かぐやを娶ろうとした求婚者たちからの文だ。怒りや悔しさ、悲しみが襲ってきても捨てられなかった、典雅な意匠と筆跡の文の数々。しかし今のかぐやの胸中はさざ波が立てど、激しい感情に駆られない。それが悲しくてさみしいと、かぐやは心に呟いた。
視線を落とすと、白陽が小さくなって月を見上げている。かぐやが屋敷の者たちに素性を明かしてから、彼はずっとそうだ。いや、月が満ちていくごとにすまなさそうな雰囲気をにじませて、口数が少なくなっている。そばにいないことも多かった。
かぐやは白陽の背をそっと撫でた。
「……白陽、そんなに小さくなっていたら、小人神がお乗りになってしまうわ」
口元だけ笑ませて、かぐやはささやくように言う。白陽は耳をそよがせ、かぐやを振り仰いだ。
「だって、姫は全然嬉しそうじゃないでしょう。俺は、もっと姫がお喜びになって、落ち着いた別れになると思ってたんです。そりゃ、陽の世での縁を断ち切るのはつらく思われるだろうとは考えてましたけど……あんなに悲しまれるとは思わなかったんです」
だからいたたまれないんですよと、困りきった声音で白陽はかぐやから目を逸らす。悲しみに暮れた雰囲気ばかりか漂う屋敷で日々を過ごして、彼なりに気が咎めているのだろう。
かぐやは白陽を抱き上げた。
「貴方は父上の命に従っただけ。月の民として、私の帰還を喜んでくれただけ。何も悪くないわ…………巡り合わせが悪かっただけよ…………」
かぐやはそう首を振り、大雑把なようでいて繊細な部分も持ち合わせている、愛すべき話相手を慰めるために抱きしめる。――――そう、別れがあまりにも早いから、誰も心の整理がつけられずにいるだけだ。白陽が心を痛めることではない。
絹の手触りの毛並みと獣のぬくもりを感じながら、かぐやは大自然の匂いをまとわせた青年を思った。
まとう気配とは相反してまっすぐな目と心の持ち主であるあの青年とは、もう四ヶ月近くも会っていない。求婚騒動が起きてから、会いたいと思っているのに彼は一度も訪ねてくれなかった。
せめて、彼にも別れを告げたい。親友である彰人が死んでしまったことを謝りたい。それは、叶わない願いなのだろうか――――――――
そのとき、かぐやの感覚にひっかかるものがあった。屋敷に張り巡らされた防壁の術をすり抜けて、強い気配がする。何かが近づいてきている。
しかしこれは、月からの使者ではない。月の民はこんな邪悪な気配をまとわせない。
「……姫」
白陽もかぐやの腕から下り、月を見上げた。彼の全身から緊張感が漂っている。
そんな二人の様子を見て、不審に思った
かぐやはぎゅっと手を握り唇を噛み締めると、立ち上がって養父母に取り縋った。
「お父様、お母様。今すぐ逃げてください。賢木も。あれは月の民のものではありません。悪しきものです」
「何だと? それは一体どういう」
「お話ししている時間はありません。賢木、それに権助。早く二人を安全なところへ」
詳しく説明する時間を惜しみ、かぐやは女房と雑色に主たちを非難させるよう命じる。当然四人は戸惑ったが、かぐやが重ねて願うと
「姫は俺が守るから、あんたらはさっさと逃げろ。つーか武士ども、お前らも命が惜しけりゃ下がってろ。あれはまともな人間が戦うもんじゃねえ」
聞こえる範囲にいる人間全員に、白陽はそう忠告する。それは正しい。かぐやは自分のために命が散るのを見たくなかった。
「――――我らはかぐやを守れとの玉命を受けた。退くことはできぬ」
「……どうなっても知らねえぞ」
将監が帝への忠義を貫くと宣言するのを興味なさそうに横目で見やり、白陽は月に視線を戻した。
「月の使者様……どうか、姫様をお守りください……!」
賢木はそう目を潤ませ白陽に乞うと、権助と共に主たちを促して去った。彰人が遺してくれた宝玉を渡したから大丈夫だと思うが、心配は尽きない。どうか彼らが無事であるようにと、かぐやは父神と伯母たる陽女神に願った。
月光を受ける影が近づいてくるにつれ、その姿が明らかになっていく。詳細を知るには影の陰影が濃すぎるが、形の詳細はわかる。よく見知った形と、それに並走する人に似た形をしている。
かぐやは目を見開いた。
「あれは……糸毛車…………!」
「ちょっと待て……! まさか、月の使者のじゃねえのかあれ!」
どういうことだよと、白陽が叫んだ。
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