第32話 月の怒り・二
純白に金糸銀糸の文様が踊る糸毛車は、かぐやがかつて月宮の外へ出る際に用いていたものだ。光を返して煌めくのを見ていたくて、かぐやはなかなか乗り込もうとしなかったものだった。
その、かぐやお気に入りの牛車の傍らには、不気味な影がある。一見すると、絵物語に出てくる天狗のようだ。しかし片方の翼が折れ曲がっているし、もう片方は異様に大きい。手足も胴の割に太くて不格好である。誰かが天狗の人形を作ろうとして失敗したようにも見える。
いや、本当に天狗の亡骸なのだ。父神から受け継いだ力を失っていないかぐやは、天狗の亡骸に災いの闇の欠片が宿り、動かしているのだと見抜いた。天狗は人が堕ちた姿。いわば負の感情と闇の塊だ。災いの闇の欠片にとって、居心地のいい宿体に違いない。身体が変質しているのも、異質な魂が宿ったことに起因しているだろう。
「あの天狗……葵をさらった奴か! じゃあ
防壁の術の外で飛行を止めた災いの闇の欠片――天狗が、嘴を開いた。
「かぐや……ようやく見つけたぞ……!」
どろりとこびりつくような声音が夜の空を震わせる。二度と聞きたくなかった声を再び聞いて、かぐやは恐ろしくて声を失った。
「矢と術を放て!」
将監が鋭い声で指示するや、数多の矢と様々な術が天狗を襲った。が、天狗が羽ばたくととすべての矢が返され、術が消滅した。空へ弧を描いていた矢が地上へ降り注ぎ、庭に呻きと悲鳴が上がる。
「だから言わんこっちゃねえ……! 天狗と災いの闇なんて最悪の組み合わせに、人間が勝てるわけねえだろが!」
高欄に飛び乗り、白陽は力を解放した。同時に薄い膜が生まれ、近衛の術者が織り成した防壁の術を破って襲いかかってくる紫色の光を受け止めて、激しいせめぎ合いになる。押しつ戻されつ、人を守る壁と殺めようとする力の波動が、屋敷の壁という壁、草木を圧倒する。
その突風に煽られ、庭のかがり火が倒れて消えた。辺りの闇は増し、明かりはかぐやの曹司の燭台と月光だけになる。――――闇の力も増した。
「白陽っ……!」
かぐやは白陽に駆け寄り、共に天狗を見据えて力を放った。かぐやの力は白陽の織り成す防壁を強固なものに創り変え、じわじわと防壁を押して貫こうとしていた光をはね除ける。
攻撃を返され、しかし天狗は目を細めて笑った。
「さすが月神の娘……この力を我らのものにできたなら、どれほど数多の闇を生みだせるだろうか……」
「私は、貴方のささやきになど騙されない……! 大切な人たちを傷つけさせもしないわ……!」
全身の勇気を振り絞り、かぐやは叫んだ。もう、あやまちを繰り返したくない。恐怖に負けたくない。そんな思いでいっぱいだった。
恐怖に抗うように、かぐやは天狗から目を逸らさない。次の攻撃が何であろうと放たれる瞬間を見逃さず、防ぐのだと決意する。
しかし――――――――
「天女よ……お前は私のものだ……」
知らない、おぞましいささやき声が聞こえた。――――――――天狗の肩に生まれた、くぼみのある大きな瘤から。
その瘤が天狗の顔に見えるのは、間違いだと思いたい。だが、瘤は天狗の手やら胴やら足やらで次々と膨らみ、くぼんで人間の顔の形を成していく。
「ああ健気な姫君、お可哀そうに……」
「見えぬ、何も見えぬ。真っ暗だ。世間知らずな幼い姫を得ようとしたばかりに、我が目の光を失ってしまった……!」
「どうしてあんなところで職人どもが来るのだ。姫と契りを交わした後なら、どうとでもなったものを」
続いて聞こえてくるのは、哀れむ者や嘆く者、憤懣する者の声。何を言っているのかわからないが、他にもぶつぶつと呟く声がある。
その声たちを、かぐやは知っている。
「
「って、そりゃ姫に求婚してきやがった人間どもじゃ……!」
かぐやの悲鳴に似た声に、白陽も驚愕した。
当然だ。秘宝の入手に失敗した彼らの末路は語られたが、こんなところで聞くとは誰も思わない。ましてや、盲目になって自邸に引き籠ってしまった御行の行方がどうなっているのかなど、噂にもなっていなかった。
「まさか…………」
かぐやは真っ青な顔で、両手で口を抑え、全身をがたがたと震わせる。天狗はにいと嗤った。
「ああそうとも。お前を手に入れようとした者らを食ってやった」
「――――――――!」
聞きたくなかった真実を告げされ、かぐやはその場にくずおれた。悲鳴を上げたいのに口を開けない。耳を防ぎたいのに塞げない。
「美味かったぞ……皆、お前への執着や恨み、己への憐憫で魂を満たしていてな……我ら太古より在りし闇の一部に相応しい……」
「黙れ! 姫の耳を穢すんじゃねえ!」
白陽が天狗に力をぶつけ、庭の上空で再び力と力がせめぎ合う。しかし今度は、かぐやが立ち直って白陽の援護をする前に決着がついた。白陽の力の塊を打ち破った天狗の波動が、屋敷を襲ってくる。かぐやはとっさに壁を織り成し、攻撃を防いだ。
ふむ、と天狗が顎に手を当てた。大きな瘤はまだ呟いている。
「見目に反して存外に気が強い……月の都でもそうだったが……絶望しないというなら…………そうだなあ…………」
天狗の目がかぐやから別のほうへ向けられる。視線の先は、屋敷の奥。
かぐやは顔色を変えた。天狗はそれに気づいて嬉しそうに嗤う。
「ああそうだな、繰り返しだもんな。いいじゃないか。どうせもう繰り返して、また他者を傷つけたのだから。家族だってそうだ」
「…………っ!」
天狗はかぐやの罪を謳い、哄笑する。かぐやは、胸を巨大な太刀で貫かれたような心地になってあえいだ。
そうだ、かぐやは自ら罪を繰り返した。月の世でもこの陽の世でも、深く考えずに相手へ答えを返したばかりに周囲を傷つけた。一度目はそそのかされて。二度目は向けられた感情から逃がれるために。月の都に広まった血と死の穢れは、紛れもなくかぐやの罪。
「姫! あんな奴の言葉に耳を貸しちゃ駄目です! しっかりしてください!」
白陽の叱咤が、動揺するかぐやを我に返させる。かぐやは高欄に手をかけ、よろよろと立ち上がった。
そうだ。罪の意識を忘れていなくても、今はそれに囚われてはいけない。この生ける闇から皆を守らなければならない。自分がしっかりしなくては。
「この外道、姫を惑わすんじゃねえ!」
「惑わすなど。私は事実を言っただけだ。……だがそうだな、哀れだから救いをやろう」
そう、天狗は頭二つ分ほど下降した。浮かぶおぞましい笑みに、かぐやは思わず高欄を強く握りしめる。
「ここへ来る途中の峠で、若い貴族を見つけた……食った奴らの記憶で、姫の求婚者だと知った。目障りなことに神の宝玉を持っていてなあ。食った奴らも妬んでいたし……だから崖から落としてやったんだよ」
「……………………え?」
また一つ、天狗は嘲り語る。耳障りな笑いにかき消される真実に、かぐやの思考が一瞬、完全に停止した。
「強い身体、強い意志。力にはならないが面白い。あの宝玉が邪魔しなければ、食ってやれたものを……惜しいことをした」
白々しく天狗は言う。
天狗の言葉が、かぐやの頭の中に沁み込んでいく。水が地に吸われるように。壺の中で音が反響するように。繰り返し、かぐやの耳に木霊する。
「貴方が
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