第33話 月の怒り・三
自分の声はどこか遠く、雲の向こうから聞こえてくるようだった。けれど言葉にした瞬間、じんと痺れ、ふわふわとしていた思考が一つの方向を向いた。
流麗な字が躍る典雅な文。読みたかった典籍をくれたときに触れた、武人らしく胼胝のある大きな手。初めて行幸に随行した際の苦労話。御簾を上げて初めて見たときの、驚きに満ちた端麗な容貌。二人で過ごした記憶が脳裏を駆け廻っていく。
まっさらな心に感情が生まれ、埋め尽くした。感情はうねり、業火となって猛る龍となる。耳の奥で何かが破砕する音を、かぐやは聞いた。
「貴方が
「!」
かぐやの感情の爆発は、屋敷を震わせ天狗に襲いかかった。天狗は防壁で防ごうとしたが、神の力の波動は悪しき力を打ち破り、天狗を直撃する。
力を受け、天狗の全身が急速に痩せ、羽根が萎み、羽毛が抜け落ちていく。食われた者たちの怨嗟の声もまた急速に老い、天狗の身体に宿る瘤は萎んでいった。傍らの糸毛車も同じ速さで色を失い、塗装がはげ落ち、車体がゆがむ。世界に等しく流れる時間の中、天狗と傍らの糸毛車だけが異常な時の流れにさらされていた。
月神が司るのは、月の世や不老長寿の効能を持つ
「姫! 無茶です! 姫の御身は……!」
「彰人様を殺した…………! 許さない!」
怒りのまま、かぐやは天狗の老いをさらに速めようとする。が、その途端、今度はかぐやの身体の内部が変化を起こした。心の臓が数多の針で刺し貫かれる痛みがかぐやを襲ったのだ。その隙を見逃さず天狗が放ってきた力は、白陽の援護を受けてなんとか防ぐ。しかし痛みや天狗からの攻撃に意識を向けたために、天狗と糸毛車の時は中途半端なところに止まってしまっていた。
それでも、いびつな翼では体重を支えられなくなるには充分だったのか、天狗は糸毛車を道連れに庭へ墜落した。糸毛車が衝撃で壊れる派手な音が辺りに響き渡る。
「天狗が落ちたぞー!」
人外の戦いを見ているだけだった兵士たちが声を上げた。長が兵たちをまとめ、天狗と糸毛車を取り囲ませる。
一方、かぐやは増大した胸の痛みに耐えきれず、胸を押さえて両膝をついた。苦痛から逃れようと荒い息を繰り返すが、それさえもつらい。我が身のいたるところで内側から炎に焼かれているかのようだ。
力を使い過ぎたのだ。父神はかぐやを災いの闇から隠すため、かぐやの肉体と魂に宿る力を極限まで抑制し、ただの人間に似せた状態で赤子にした。今のかぐやの身体は純粋な人間のそれではないが、本来のものでもないのである。そんな微妙な均衡の上にある肉体で、そして力がもっとも増大する満月の夜に、月神の力を過度に使えばどうなるか。――――その結果がこれだ。
「姫、姫しっかりしてください!」
白陽が必死で呼びかけてくるが、かぐやはそれに答える余裕がない。かろうじて彼に顔を向けるのがせいいっぱいだ。
将監が、天狗が死んでいるのかどうか確かめようとすると、白陽が怒鳴った。
「てめーら! やるならさっさと浄化の炎で燃やせ!」
「はっ……はは!」
月神の使いに叱咤され、兵たちは慌てて天狗の身体と白毛車の浄化を始める。こんな子供の声の可愛らしい見かけでも、天狗に対抗しうる力を秘めているとつい先ほど見せつけられたところだ。ましてやこんな異常事態では、異形に従うことへの抵抗も浮かばないのだろう。
祝詞を唱えて一時的に場を清めた上で、術者たちが術火によって穢れたものを焼却する。その声と音を、かぐやは苦痛の中で聞いていた。とは言っても、全身で暴れ回る痛みが逃げることを許してくれないから、鼓膜を震わせているだけだ。意味あるものとして聞くことはできない。
高欄に手をかけてかぐやはなんとか身を起こし、燃えゆく天狗の身体を見た。
普通のものとは違う動きをする真っ赤な炎が、天狗の身体と糸毛車を燃やしていく。身体を燃やす悪臭はないが、代わりのように、おぞましい断末魔の悲鳴がいくつも上がる。熱い、苦しい、助けてくれと懇願する声もある。
「ごめん……なさい…………!」
苦痛にのたうつかぐやの唇から、謝罪の言葉がこぼれた。ぱたぱたと涙が頬をすべり落ち、高欄を濡らしていく。
あれは災いの闇の一部だ。だが、人間だったものだ。かぐやの求婚者たち。災いの闇に食べられてしまった哀れな人たち。――――かぐやの人間としての生に巻き込んでしまった。
忙しない瞬きで涙を落としながら、かぐやは炎に包まれる身体とお気に入りだった糸毛車を見つめ、次第に小さくなる声と崩れ落ちる音を聞く。これから目を逸らし、耳を塞いではいけないと思った。
「……?」
浄化の炎を見ていたかぐやは、ふと眉をひそめた。
天狗の中が、ひどく空虚なのだ。浄化の炎が求婚者たちを清めて燃やしている。しかしそれなら、災いの闇の欠片はどこだろう。なんの力もない残滓しか天狗の中に残っていないのは、本当に術者たちの実力なのだろうか。
「姫……?」
かぐやは緩慢に首を巡らせ、庭に落ちる闇の数々を凝視していく。嫌な胸騒ぎと不安がまだ消えてくれない。
満月に見下ろされる、秋の半ばの草木の影は濃い。枯れた藤も、桂も、桜の木も。
桜の木の影が、不自然に動いたような気がした。
「皆、桜から逃げて!」
考えるよりも先に、かぐやは人間として生まれて初めての大音声で兵士たちに避難を促した。兵士たちが驚いて振り向き、戸惑って顔を見合わせる。かぐやに遅れて気づいた白陽も逃げろと吠えて、ようやく将監が撤退の命を発した。
が、それはもう遅かった。
桜の木の枝の影が大地から這い出てくるや、逃げ遅れた兵たちに巻きつき捕らえた。小枝や葉の影が兵たちの身体にぴたりと貼りつくと、そのまま兵の体内へ入り込む。兵が目を見開き口を開けるが、悲鳴にはならない。
「……っ」
「姫、無茶です!」
白陽の悲鳴のような制止を無視し、かぐやは力を影にぶつける。幹の影に着弾するや、悲鳴が上がって枝葉は兵たちを投げ落とした。生き残った兵たちが、解放された仲間を引きずって安全なところ――屋敷の近くまで後退する。
兵たちを救った代償にかぐやは、さらなる激痛に襲われ廊下に倒れた。立ち上がらなければと思うのに、指一本動かすのも難しい。目を開けているのか閉じているのかもよくわからないし、白陽が呼びかけている声も遠い。気を失いそうなのに失えず、暴れる獣が身の内にいるかのような苦しみは終わらない。
彼女の一撃で多くの兵が助かったが、桜の木の影が及ぶところに落とされた者は救いようがない。影から根のような触手が伸びて兵を覆い、体内に入り込み、肌の色を失わせながら影に沈めていった。糧を得て、災いの闇と一つになっ桜の木の影が歓喜にうごめく。それと連動するかのように、未だ夏の青さを残す本物の葉が震え、濃い紫を経て闇に染まる。本物の幹や枝から新しい枝が数本伸びていく。
術者たちが今一度術を放ち、武者たちが影に斬りかかった。かぐやと白陽が止める間もないそれらの攻撃は、ことごとくが弾き返され、あるいは影に飲み込まれる。いくつかの術と、続く白陽の攻撃が影の身を焼いただけだ。それとてさしたる損傷ではないだろう。
どこからともなく声が聞こえてきた。
「姫……無様だな……神の娘ともあろう者が、そんな非力な身体では満足に力も使えまい。満月の夜に父神の力を借りてさえ、その有様。無様だなあ……」
災いを退けられる力を持っていながらそれを使えず、ばかりか苦痛にのたうつ無力な神の娘を災いの闇は嘲笑う。その哄笑は、痛みの只中にあるかぐやの耳にはっきりと聞こえた。白陽の声は遠いところから聞こえるのに。
かぐやは涙を流した。父神の加護を借りても災いの闇の欠片を討てないほど、自分は弱くなってしまっている。このままでは、皆が災いの闇の欠片に飲まれてしまう。――――――――自分がここにいたばかりに。
せめて、とかぐやは高欄を支えに我が身を引きずり上げる。いつの間にか白陽がそばを離れ、災いの闇に戦いを挑んでいる。拮抗しているように見えて、劣勢だ。
痛みを意識から努めて排除し、力を掌に集中させる。白陽が負けてしまう前に加勢しようとした。
そのときだった。
懐かしい力が聖なる陽の気配をまとわせ、かぐやの頬を撫でたと思った瞬間、目を焼かんばかりの眩い光とつんざくような雷鳴が辺りに満ちた。涼しく清冽な衝撃波が邪気を一瞬にして払い、醜い悲鳴が上がる。かぐやはそれを、真っ白な視界と轟音のあまりの無音の中で聞いた。
それを言祝ぐように、庭に火がいくつも灯り影を払う。空から影が降り立つ。
かぐやは、小さな背を従えたその大きな背を知っている。
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